HISTORICAL PERSON · 1754年没

ヘンリー・ペラム

イギリスの政治家で、1743年から首相を務めた。分裂しかけたホイッグ党をまとめて長期政権を築き、1748年にアーヘンの和約でオーストリア継承戦争を終結させた。

生涯
1754年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(ロートン)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ヘンリー・ペラムは、1694年9月26日に生まれ、1754年3月6日に没したイギリスの政治家である。1717年からホイッグ党の庶民院議員となり、ロバート・ウォルポール政権で閣僚を務めた。1743年8月から首相を務め、ウォルポール後のホイッグ政治を主導した。同じくホイッグ党の首相となった初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスは兄である。

ロンドンで、初代ペラム男爵トマス・ペラムと、二人目の妻グレース・ホリスの次男として生まれた。兄とは生涯を通じて政界の盟友であり続けた。ウェストミンスター・スクールを経て、1709年にケンブリッジ大学に入学し、翌年オックスフォード大学に移ったが、卒業はしなかった。1715年のジャコバイト蜂起の際には連隊の大尉として従軍し、鎮圧の直後に大陸ヨーロッパを訪れて、1717年10月に帰国した。

1717年2月、兄が掌握していた選挙区の補欠選挙で庶民院議員に当選した。1720年の初演説では国王への感謝動議を提出し、1721年には下級大蔵卿に任命された。1722年に政界の有力者サンダーランド伯爵が急死してウォルポールとカートレットの政争が起こると、兄とともにウォルポールに味方し、カートレットは1724年に更迭された。彼と兄はともに議会政治家として傑出し、南海泡沫事件の収拾でもウォルポールに協力して政権を支えたため、ウォルポールは彼を自身の継承者とみるようになったという。1724年に戦時大臣、1730年には陸軍支払長官となり、1733年に物議を醸した消費税法案もペラムは支持したという。

1742年にウォルポールが退陣した後、反ウォルポール派の後押しを受けるカートレットが実質的な首相となるウィルミントン伯爵内閣が成立したが、ペラム兄弟は国王ジョージ2世の意向で政権に留まった。1743年にウィルミントン伯爵が死ぬと、カートレットが望んだ後任ではなく、国王の意向でペラムが8月25日に第一大蔵卿に、12月に財務大臣に任命された。ハノーファーの防衛を重視するカートレットは人気を失い、1744年11月にペラムは国王に強引にカートレットを更迭させた。同年末には、トーリー党の一部を含む野党から広く人材を登用する内閣改造を行い、議会の広範な支持を得た。1745年から翌年のジャコバイト蜂起も速やかに鎮圧した。1746年2月、国王はペラムが上奏した大ピット登用の人事案を拒み、グランヴィル伯爵(1744年以降のカートレット)を首班とする内閣を作ろうとしたが、ペラムは2月11日に辞任した。ところが組閣は庶民院議員の支持を得られず、14日にペラムが首相に復帰し、国王は屈服して大ピットの登用も実現した。この事件で彼は、同時代の風刺画で「国王ヘンリー9世」と描かれるようになった。

その後は野党勢力に一定の官職を与えて議会に広い支持をとりつける政治手法をとった。1747年に突然解散総選挙を行って、準備不足の野党を破り、1748年にはアーヘンの和約を締結してオーストリア継承戦争を終結させた。海軍の縮小で歳出を抑え、土地税の税率を引き下げ、国債の統合を進めて利子率を下げた。1751年にはジン法を制定し、1753年にはユダヤ人の帰化を容易にする法律を作ったが、世論の反発で翌議会で廃止した。清廉な政治家で、死んだとき貧しかったことは記憶に値するとホレス・ウォルポールも評した。1754年3月6日に丹毒の発作で没し、後任の首相には兄が就いた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物