伝記
蕭衍は、南朝梁の初代皇帝である。大明8年(464年)に生まれ、太清3年5月2日(549年6月12日)に没した。前漢の蕭何の子孫と称する南蘭陵郡の蘭陵蕭氏の一門で、南朝斉の宗室とは別の支族にあたる。父の蕭順之は斉の高帝蕭道成の族弟で、高帝の簒奪を助けた功で臨湘侯となり、丹陽尹も務めた。蕭衍はその三男で、母は張氏といい、471年に没した。
若いころから文武の両面で注目され、文化の中心だった竟陵王蕭子良の西邸に出入りして、沈約らとともに「竟陵八友」の一人に数えられた。斉の官僚として働き、495年に北魏が侵入すると前線で戦って功を立て、498年には雍州刺史として要衝の襄陽を守った。のちに暴政を行った皇帝蕭宝巻が長兄の蕭懿を誅殺したため、追い込まれた蕭衍は弟の蕭宏・蕭偉・蕭恢とともに蕭宝融(和帝)を奉じて挙兵した。都の建康へ進軍して蕭宝巻を殺し、和帝から禅譲を受けて天監元年(502年)に帝位に即き、梁を興した。
治世の前半、天監年間の武帝は、沈約や范雲ら主に名族出身者を宰相に就け、倹約を奨励した。官制の整備、梁律の頒布、大学の設置、人材の登用、租税の軽減などで実績を挙げ、土断法を実施して流民対策も進めた。自らも読書を好み、詩を作り、芸術を庇護した。普通元年(520年)に改元した後は、政治に放縦さが目立つようになり、仏教教団には寛容になって、自身も仏教への関心を強めた。大通元年(527年)以降は、自ら建てた同泰寺で「捨身」の名目で莫大な財物を施与した。その結果、財政は逼迫し、民衆への苛斂誅求が再び行われた。朱异に代表される寒門出身者を重用したため、官界の綱紀も乱れていった。ただ、その信仰は表面的ではなく、仏典の注釈書を著し、仏教の戒律に従って菜食を守ったことから「皇帝菩薩」と称された。東南アジアや西域諸国、百済との交渉も盛んで、各国からの国書は仏教用語で武帝を菩薩扱いしたといわれる。大通元年には北伐を命じて北魏の大軍に勝利し、大通3年(529年)には北魏から亡命した北海王元顥を送り届けるため、陳慶之が7000人の少数の兵で洛陽を陥落させた。すぐに爾朱栄に奪い返されたが、これは南朝で最後の北伐の成功とされる。
太清2年(548年)、東魏の武将侯景が帰順を申し出た。武帝は東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って援軍を送り、侯景を河南王に封じた。しかし梁軍は彭城で東魏に大敗し、侯景軍も渦陽で敗れた。朱异が東魏との講和を主張したことで侯景は不信を抱き、反乱を起こして建康を包囲した。宗室の蕭正徳の手引きで侯景軍は外城に入り、武帝たちは内城に籠もった。羊侃の奮戦で戦いは数か月にわたり一進一退したが、侯景は奴隷解放令を出して兵を増やし、羊侃が没した翌年3月、玄武湖の水を堀に注いで城を落とした。
引き立てられた武帝は、侯景に渡江の時は何人だったのか、建康を囲んだ時は何人だったのかと問うた。侯景は千人、十万人と答え、今は全土が自分のものだと告げた。武帝は何も言えず、そのまま黙ってうなだれた。幽閉された武帝は食事も満足に与えられず、蜜を求めても与えられず、飢えと渇きのうちに没した。正室は郗徽で、三人の娘を産んだが男子はなかった。側室との間には長男の昭明太子蕭統、三男で第2代皇帝となる簡文帝蕭綱、七男で第4代皇帝となる元帝蕭繹らがいた。また、次男の蕭綜は実父が蕭宝巻とされる。