HISTORICAL PERSON · 1759年没

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル

ドイツ出身の作曲家・オルガニスト。イタリアで成功した後、イギリスで長年活躍して帰化した。イタリア語のオペラ・セリアや英語のオラトリオで知られ、オラトリオ『メサイア』は現在も特に人気が高い。

生涯
1759年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハレ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは、1685年2月23日(グレゴリオ暦3月5日)に生まれ、1759年4月14日に没したドイツ出身の作曲家でありオルガニストである。イタリアで成功したのちイギリスで長年活躍し、帰化した。後期バロック音楽を代表する一人で、イタリア語のオペラ・セリアと英語のオラトリオで知られ、自ら公演事業にも携わった。オラトリオ『メサイア』は今も特に人気が高い。

ブランデンブルク=プロイセン領のザーレ河畔のハレに生まれた。父ゲオルクは公爵に仕える外科医で従僕であった。幼い頃から非凡な才能を示したが、父は息子を法律家にしようと考え、音楽に反対した。そこでヘンデルは父の目を盗んでクラヴィコードを入手し、夜な夜な屋根裏部屋で練習を重ねたという。ヴァイセンフェルス公爵がそのオルガン演奏を気に入って援助したおかげで、勉強を続けられた。ハレのオルガニストに作曲やオルガン、チェンバロ、ヴァイオリンを学び、じきに師をしのいだ。1697年2月11日に父が没し、反対する者はいなくなったが、収入と支えの両方を失った。1702年にハレ大学に入学し、同年ハレ大聖堂のオルガニストとして1年間の仮採用の契約を結んだ。この頃に始まったテレマンとの交友は終生続いた。

1703年、契約を満了して大学を辞め、オペラの盛んな自由都市ハンブルクへ出た。ゲンゼマルクト劇場で第二ヴァイオリン奏者として採用され、チェンバロの通奏低音奏者や演奏監督も務めて経験を積んだ。1704年、取り立てから逃れて町を離れたカイザーに代わってオペラを作曲することになり、最初のオペラ『アルミーラ』が1705年1月8日に上演され、約20回も上演される大成功を収めた。親友となった音楽理論家のマッテゾンとは、上演中に喧嘩を始めて決闘で刺されそうになったこともあったが、のちに和解した。1703年にはマッテゾンとリューベックに旅し、ブクステフーデの後任の座をめぐって、その娘との結婚が条件と聞いて逃げ出している。

トスカーナ大公子フェルディナンドの熱心な誘いを受け、1706年から1710年までイタリアの各地を巡った。ローマではオペラの上演が禁じられていたため、最初のオラトリオ『時と悟りの勝利』を作曲し、コレッリの影響を受けた。ドメニコ・スカルラッティと鍵盤楽器の競演をし、オルガンではヘンデルが圧倒したという。1709年にヴェネツィアで上演された『アグリッピーナ』は連続27回の大成功を収め、「ザクセン人」と親しまれた。

1710年6月、25歳でハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、直後に長期旅行の許可を得て、その年の暮れにロンドンを初めて訪れた。2週間で書き上げたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演されて、15回上演される大成功を収めた。1712年11月に再びロンドンに来て、そのまま住み着いたが、1714年にアン女王が没してハノーファー選帝侯がジョージ1世として迎えられても、咎められることはなく、良好な関係を保った。1717年にはテムズ川での王の船遊びのために『水上の音楽』が演奏された。1719年に設立された王室音楽アカデミーの中心となり、『ジューリオ・チェーザレ』『ロデリンダ』などを上演した。1727年にイギリス国籍を取得した。のちに貴族オペラとの争いで疲弊して卒中に倒れたが、回復し、1739年以降にオラトリオで多くの名作を書いた。1742年4月13日にダブリンで初演された『メサイア』は、わずか24日で書き上げ、起死回生の一作となった。

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