伝記
サミュエル・リチャードソンは、イギリスの小説家であり、印刷業者である。「近代小説の父」と言われる。1689年8月19日に洗礼を受け、1761年7月4日に没した。三つの書簡体小説『パミラ、あるいは淑徳の報い』(1740年)、『クラリッサ』(1747年~1748年)、『サー・チャールズ・グランディソン卿の物語』(1753年)で知られる。印刷した書物は雑誌や定期刊行物を含め500点近くに及ぶ。
1689年ごろ、ダービーシャーのマックワースで、9人きょうだいの一人として生まれた。父は指物師で、製図に巧みで建築にも通じていたとされ、モンマス公ジェームズ・スコットの目に留まった。ところが1685年にモンマスの反乱が失敗してスコットが死ぬと、父はロンドンの商売を捨て、ダービーシャーで慎ましく暮らさなければならなかった。母は良い家柄の出で、両親を1665年のロンドンの疫病で幼いころに失ったと本人は述べている。生地の詳しい場所は本人が一貫して隠したため不明で、幼少期は貧しかったらしいことが近年わかった。のちロンドンに戻り、クライスツ・ホスピタルの文法学校で学んだともされるが、どの程度通ったかははっきりしない。
少年のころから手紙を書くのが得意で、友人に物語を語り、手紙を書き続けて過ごした。11歳近くのとき、他人を批判してばかりの50代の女性に、年配者の文体を真似て戒めの手紙を送った。筆跡で正体が知れ、女性が母に苦情を言うと、母は少年の身のほどを叱りつつも、その考え方は称賛したという。やがて周囲の若い女性たちに頼まれて、13歳のころから、恋文への返事の代筆をするようになった。こうして、女性たちに可愛がられたとされる。ただし本人は1753年、これらの経験から大きな結論を引き出さないよう、オランダの牧師に助言している。女性を十分に理解したのは『クラリッサ』を書いたときで、少年時代の手紙は始まりにすぎなかったとも語った。
父は息子を聖職者にしたかったが、必要な学費を払えず、職業は本人に選ばせた。息子が選んだのは印刷業で、読書への渇望を満たしたいという望みからだったという。1706年、17歳でジョン・ワイルドのもとに7年間の徒弟奉公に入った。この師は、自分の利益にならない時間を惜しむ人物という評判であった。徒弟時代には、文才に関心を持った裕福な紳士と文通を始めたという。のちに独立し、ロンドンの出版界を代表する大物の印刷業者になった。師の娘マーサと結婚したが、6人の子は全員が幼くして亡くなり、マーサ自身も1731年に出産で死んだ。1733年に印刷業者の娘エリザベス・リークと再婚し、さらに6人の子をもうけ、成人したのは4人の娘であった。
同業者から手紙の書き方の模範となる書簡集を書くよう勧められ、物語風に脚色した架空の手紙を書くうちに、書簡体小説の着想を得た。51歳で書いた最初の小説『パミラ』は、たちまち成功した。美しい小間使いが好色な若主人の誘惑をはねつけ、改心した主人と結婚して地主夫人の地位に上り詰める物語である。『クラリッサ』は、地主の娘が嫌な男との結婚を避けようと放蕩男の手を借りて家出し、犯されて自殺に至る物語である。サミュエル・ジョンソンやサラ・フィールディングらと交友し、文学ではヘンリー・フィールディングと競い合って、互いの作風に応答した。
同じ年に亡くなった人物
- メフメド・サイド・パシャ (1761年没)
- バーラージー・バージー・ラーオ (1761年没)
- Kelemen Mikes (1761年)
- シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イル (1761年没)
- トーマス・シンプソン (1761年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・サンマルティーニ (1750年没)
- パーシー・ウインダム・ルイス (1957年没)
- トマス・グラハム (1843年没)
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- ウィリアム・スミス (辞書編集者) (1893年没)