伝記
アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンは、1714年7月17日にベルリンで生まれ、1762年5月にフランクフルト・アン・デル・オーデルで没したドイツの哲学者である。没日は26日とも27日ともされる。ライプニッツとヴォルフの伝統を受け継ぎ、「美学」という学問の名を初めて哲学に導入した人物として知られる。
父ヤーコプ・バウムガルテンは軍隊付きの説教師で、母はロージーナ・エリーザベト・ヴィーデマンといった。七人の子の五番目で、一歳を越えて育ったのは四人だけだったという。兄にはのちに神学者となるヤーコプがいる。幼くして、母を3歳、父を8歳で失い、ベルリンのグラウエン・クロスター・ギムナジウムに通った後、敬虔主義の聖職者フランケが主宰するハレの学校に入った。続いてハレ大学で神学、哲学、そして修辞学と詩学にあたる美しい学問を学び、イェーナではヴォルフの講義にも出席した。修士の試験に合格すると、自分が学んだ孤児院で詩学と論理学を教えた。
1735年に提出した論文『詩に関する若干の事柄についての哲学的省察』の中で、美学を論理学と対をなす独立した哲学の一分野として定義した。この論文によれば、上位の能力で認識される可知的なものは論理学の対象であり、感覚でとらえられる可感的なものは、感性の学としての美学の対象となる。つまり、論理学が従来扱ってこなかった下位の認識能力、簡単にいえば知性ではなく感性を扱う学である。その定義に従えば、提唱されたのは「美学」というより「感性学」と呼ぶべきものであった。しかし1757年の『形而上学』では、バウムガルテン自身が美学という語に「美しいものの学」という訳語を充てており、「美学」の訳語は、提唱時の意味こそ失われているものの、彼の意図は汲んでいるといえる。語としては、感覚を意味するギリシア語から導かれた。
1737年にハレ大学の員外教授となり、1740年にはフランクフルト・アン・デル・オーデル大学の正教授に移って、以後22年を、生涯の最後まで過ごした。1742年にはここで最初の美学の講義を行い、翌年には学長に選ばれた。1739年に『形而上学』を、のちに『倫理学』を出し、1750年に主著『美学』の第1巻を刊行した。この計画は第2巻を1758年に出しただけで未完に終わった。最後の生前刊行書は1761年の『論理学講義』で、死の1年前に出ている。没後には、学生の手によって『自然法』と『一般哲学』が出版された。
感性を認識の源として評価し、理性の働きに類似した確かな認識を、感覚を通じて与えようとした点に、彼の考え方の特色がある。ただし感性的な認識は、デカルトにならって、混乱した観念という下位のものとして位置づけられた。美しさは明晰で判明な観念ではなく、混乱した観念だとされ、芸術は知性と感性の双方の活動から生まれると説いた。この考えとともに、美を事物の客観的な性質としてではなく、人間の営みから生じるものとして見る主観的な美の理解が広まっていった。イマヌエル・カントは彼に賛嘆の念を抱き、自分の講義でバウムガルテンの『形而上学』を教科書に用いたが、のちに『判断力批判』では、美学は快と不快の感情に基づくと論じた。
同じ年に亡くなった人物
- ルイーゼ・ゴットシェット (1762年)
- ドロテーア・エルクスレーベン (1762年没)
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- パウル・トロガー (1762年没)
- 桃園天皇 (1762年没)
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