伝記
ニコラ=ルイ・ド・ラカーユは、1713年3月15日にフランス東部アルデンヌのリュミニーに生まれ、1762年3月21日に没した天文学者であり測地学者である。聖職の位を持つ神父でもあった。南天の約1万個の恒星を観測し、88星座のうち14星座を設けたことで知られる。
マント=シュル=セーヌの学校に通った後、リジュー学寮で修辞学と哲学を、ナヴァール学寮で神学を学んだ。ヴァンドーム公爵夫人の家に仕えていた父を1731年に亡くして貧しくなったが、父のかつての庇護者であるブルボン公の援助で学業を続けた。卒業後は司祭の叙階を受けず、助祭の位だけを受けて神父となり、以後は科学に打ち込んだ。ジャック・カッシーニの後援を得て職に就き、最初はナントからバイヨンヌまでの海岸の測量に従事した。1739年にはフランスの子午線弧長の再測定を行った。2年を要した困難な仕事で、1718年にカッシーニが発表した不正確な結果を改める成果を上げ、その成功は主に彼の勤勉さと技能によると評価された。この功績でフランス科学アカデミーの会員に迎えられ、パリ大学マザラン学寮の数学教授にも任じられて、自分用の小さな天文台も設けた。影響力のある教科書を何冊も著し、ニュートンの重力理論の強い支持者でもあった。教え子にはのちに断頭台に送られたラヴォワジエやバイイがいる。
惑星までの距離を、できるだけ長い基線を用いて三角法で求めたいという考えから、1750年に喜望峰への遠征を提案した。これが公式に認められ、現地ではオランダ総督トゥルバフの支援を受けて、テーブル湾の岸に天文台を築いた。約2年の滞在中、毎夜の観測を1年以上続けて、南天のほぼ1万個の恒星を観測し、42の星雲状の天体も記録した。月と太陽の視差を求める目的も果たしたが、これにはヨーロッパでラランドが行った同時観測が必要であった。滞在中には、ケープタウンとオーロラの間で約137キロメートルの子午線弧を測り、南半球での地球の半径を求めた。結果は地球が南極に向かって扁平でなく細長いことを示すように見えたが、後年に測り直されて、山の重力による鉛直線の偏差の影響が指摘された。南半球へ向かう船旅では洋上での位置の決定が難しいことを痛感し、帰国後は、月の距離による経度測定に使える精度の月の位置表を初めてつくった。日食表などの計算も数多く手がけ、ラランドは、生涯の観測と計算の量は同時代の天文学者全員を合わせたよりも多いと評した。
1756年には、1,930個の恒星の目録と星図をフランス語で出版した。この中で、のちに標準となった南天の14の新しい星座を設定している。がか座、けんびきょう座、コンパス座、じょうぎ座、ちょうこくぐ座、ちょうこくしつ座、テーブルさん座、とけい座、はちぶんぎ座、ぼうえんきょう座、ポンプ座、レチクル座、らしんばん座、ろ座がそれである。テーブルさん座は、地上の地形に由来する唯一の星座である。アルゴ座を分割したという説は誤りで、星表上で各部に名を付けただけである。これらの南天の目録は、没後の1763年にラテン語の『南天恒星図』として出版された。その星図は、フラムスティードの天球図譜の第2版(1776年)にも採録され、全ての星を含む完全なカタログは、19世紀にフランシス・ベイリーが作成した。
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