伝記
曹雪芹は、中国の清の乾隆年間の作家で、中国を代表する古典小説『紅楼夢』の作者とされる。1715年ごろ(1724年とする説もある)に江寧府、現在の江蘇省南京市に生まれ、1763年初め(乾隆27年末)ごろに北京で亡くなったと伝わるが、生没年にも異説がある。雪芹は号、字は夢阮とされるが、字や号についても異説がある。清朝の八旗に属する旗人の家柄で、北宋の名将曹彬の末裔を称した。
曹家はもと遼寧の遼陽の出身で、数代にわたって瀋陽に住んだ。瀋陽の駐屯軍の司令官を務めた曹世選は、1621年に女真族が瀋陽を奪うと、満洲の旗に編入され、1644年には北京に入って、新しい王朝の皇室に属することになった。曾祖父の曹璽の妻は、幼い康熙帝の保母だった孫氏であり、曹璽は江寧織造の職に就いて20年にわたり務めた。織造は宮廷に絹織物を納めるだけでなく、民情や行政に関する秘密の報告を上げて、江南で清朝のために情報収集に当たる役でもあった。祖父の曹寅は康熙帝の乳兄弟とされ、学友でもあって、北京の近衛の隊長を経て、1692年から1712年まで江寧織造を継ぎ、義弟の李煦とともに織物の専売を分け合って財をなした。詩人、蔵書家、美しい本の編集者でもあり、多くの詩人や劇作家と親しんだことが、後に孫の文学形成に影響を与えたとされる。皇帝が祖父を訪ねたことは『紅楼夢』にも描かれているが、曹雪芹はまだ幼く、一族の語りに着想を得たのだろうと推測されている。文人袁枚の所有で有名になった「随園」は、もとは曹家の別荘であった。
曹寅のひとり息子曹顒は1712年に父の職を継いだが、3年後、後継ぎの曹頫が生まれる前に亡くなり、祖母が曹頫を養子に迎えた。曹雪芹はこのどちらかの子とされるが、はっきりしない。康熙帝の死後、新たに即位した雍正帝は曹家の帳簿を調べさせ、曹頫を解任した。李煦は満洲に流されて1729年に没し、曹家は財産を失って困窮した。曹雪芹自身は、1728年ごろまでは豪奢な暮らしを送り、宮廷の織物工房で働いたともいう。ただし皇帝は住居と数人の召使を残した。雍正の後の乾隆帝も、政府への負債を口実に財産を没収したとされ、一家は南京を去って、北京の西郊の貧しい地区に移り、曹雪芹は世間から離れて暮らした。晩年の暮らしはきわめて貧しく、そのため伝記にはわからないことが多い。
困窮のなかで、『紅楼夢』の完成に精魂を傾けた。現行の120回のうち、曹雪芹が書いたのは80回までで、残りは散逸したか、筆禍を恐れて破棄されたという。作品は未完のまま遺され、没後数年して出版された。出版を援助し評論を付した脂硯斎は、曹雪芹の一族だという説が有力である。画才にも優れ、宮廷画家として声がかかったこともあったという。後に満洲人の作家は、友人や縁者から聞いた話として、体格がよく色の黒い、弁舌が巧みで優雅かつ愉快な人物で、語るものすべてが春を呼び、聴衆は一日中飽きることがなかったと書いている。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ (1763年没)
- サラーバト・ジャング (1763年没)
- アントン・ウルリヒ (ザクセン=マイニンゲン公) (1763年没)
- ジョルジュ・サルマナザール (1763年)
- フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯) (1763年没)