伝記
ピエール・ド・マリヴォーは、1688年にパリで生まれ、1763年2月12日に同じパリで亡くなったフランスの劇作家、小説家、ジャーナリストである。本名はピエール・カルレといい、生涯に約40の戯曲を書いた。資料の乏しい人物で、よく知られる「ピエール・カルレ・ド・シャンブラン・ド・マリヴォー」という名は、そのままの形で現れたことがない。法学部に入るときにはピエール・ドゥカルレと名乗り、1716年に『ホメロスの戯画化』の序文で初めて「カルレ・ド・マリヴォー」と署名した。シャンブランは母方の従兄弟の姓を、書店の目録で付け加えたものである。
ノルマンディー出身の貴族の家に生まれ、父ニコラ・カルレは海軍の行政に携わり、のちに造幣局で働いて、リオムの造幣局長となった。母マリー=アンヌ・ビュレは、国王の建築家ピエール・ビュレの妹で、この叔父が後に宮廷への道を開いた。1698年に一家はリオムに移り、マリヴォーは1704年から1711年までリオムのオラトリオ会の学院で学び、中等教育の終わりにはリモージュで学んだ。法律の勉強を始めたが、文学のサロンに出入りして、モリエールは時代遅れだと言ったところ、挑まれて1週間で最初の戯曲を書き上げたという。1706年に書いたとされる詩喜劇『賢明で公平な父親』で、1712年に刊行された。
1712年ごろからパリで法律を学び、叔父の家に住んだ。ベルナール・フォントネルと親しくなり、ランベール夫人のサロンに出入りして、古代人に対する近代人の側に立った。1710年代は戯曲よりも小説を多く書き、1714年ごろには『ホメロスの戯画化』や『フェヌロンの「テレマック」のパロディ』などを手がけた。その後、裕福な弁護士の娘コロンブ・ボローニュと結婚し、持参金で暮らしは安定したが、妻は1723年に亡くなった。1720年にはジョン・ローのミシシッピ会社への投資が破綻して破産し、社会の矛盾を意識するようになったとされる。1721年から1724年にかけて、イギリスの「スペクテイター」を模した新聞『スペクタトゥール・フランセ』を刊行した。
1720年、唯一の悲劇『アンニバル』をコメディ・フランセーズで上演したが失敗した。しかし同年、ルイジ・リッコボーニが率いるイタリア人の劇団が上演した『恋に磨かれたアルルカン』で人気を博し、劇団の専属作家となった。若い女優シルヴィア・バレッティが理想の演じ手となり、彼女のために作品を書いた。従来の性格喜劇や風俗喜劇に代わって、恋愛心理を描く感傷的な喜劇を生み、『恋の不意打ち』『二重の不実』、1730年の『愛と偶然との戯れ』、1737年の『偽りの告白』などを世に出した。作品の主人公は決まって女性で、繊細で気取った文体は「マリヴォダージュ」と呼ばれる。『奴隷島』のように主従関係や人間の平等を扱う社会喜劇もある。
存命中は観客に十分理解されず、収入的に失敗することも多かったが、20世紀に入って高く評価された。小説には未完の『マリヤンヌの生涯』や『成り上がり百姓』がある。1742年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。1758年から病を得て、胸膜炎のため亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- Hedvig Charlotta Nordenflycht (1763年)
- ウィリアム・シェンストーン (1763年)
- ペーテル・フォルスコール (1763年)
- ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス (1763年没)
- アントン・ウルリヒ (ザクセン=マイニンゲン公) (1763年没)
同じ地域に関係する人物
- イグナツ・プライエル (1831年没)
- フェリックス・ガイヤール (1970年没)
- Charles Collignon (1925年没)
- シャルロット・ペリアン (1999年没)
- アラン・ポエール (1996年没)