伝記
キルデベルト1世は、496年頃(497年頃ランス生まれともいわれる)に生まれ、558年12月23日にパリで没したフランク王である。父はフランク王クローヴィス1世、母は王妃クロティルデで、両者の間の三男で、父にとっては四男にあたる。511年に父が没すると、王国は4人の息子に分割され、年長の異母兄が半分を受け取り、残る半分を母を同じくする3人の兄弟が分け合った。キルデベルトが受け取ったのはパリ王国で、ソンム川とロワール川の間に挟まれた地域を領土とし、ブルターニュ、ノルマンディー、ブリーの諸地方とアキテーヌ西部から成っていた。
523年から524年にかけて、キルデベルトと同腹の兄弟たちは、母の教唆でブルグント王国を攻めた。この戦争中に兄のオルレアン王クロドメールが戦死すると、キルデベルトと弟のソワソン王クロタール1世は、クロドメールの幼い遺児たちから領土を奪おうと企てた。長い髪は王権の象徴であり、髪を切るか殺すかを母に問い合わせたところ、クロティルデは孫が髪を切られるより死ぬ方がよいと答えたという。クロタールが甥のうち2人を自ら刺殺し、末の甥クロドアルドだけが逃れた。のちに聖クルーと呼ばれる彼は、髪を捨てて修道院を開き、初代の院長になったという。キルデベルトは弟とオルレアン王国を折半し、領土を広げた。
531年、妹クロティルデと夫の西ゴート王アマラリックとの不和を知ると、キルデベルトはアマラリックを攻め、ナルボンヌで破った。妹が信仰のゆえに虐待されていた証として血のついた布を送ってきたことが遠征のきっかけだったという。532年には弟とともに2度目のブルグント遠征を始め、534年にブルグント王ゴドマール2世を敗死させて王国を併合した。彼はブルグントの一部とプロヴァンスを得て、領土は一気に拡大した。またスペインではパンプローナを取り、サラゴサを包囲したが失敗して撤退し、この遠征から聖ヴァンサンのストラを持ち帰ったとされる。
533年頃、異母兄のランス王テウデリク1世が没すると、またも弟クロタールと語らってその遺領を奪おうとしたが、テウデリクの息子テウデベルト1世の根回しで失敗した。その後、男子のいないキルデベルトは、強力な甥のテウデベルトを養子にして後継ぎとして扱ったが、テウデベルトは547年(ないし548年)に死去した。二人でクロタールを攻めたこともあったが、不首尾に終わった。その際、クロティルデが聖マルティヌスに祈ると嵐が起きて計画が中止されたとも伝わる。548年には、弟とともに母を父の傍らに葬った。
ゴート族出身と思われるウルトゥロゴータと結婚して、娘クロドシンダとクロドベルガをもうけたが、男子には恵まれなかった。543年に建立した聖ヴァンサン教会は、のちにサン=ジェルマン=デ=プレ修道院となる。558年、この修道院の献堂式の日に亡くなり、式は延期されず、王の葬儀を兼ねて営まれたとされる。同修道院はその後メロヴィング家の霊廟に定められ、彼は最初に埋葬された王となった。相続人がいなかったため、領土は弟のクロタール1世が継ぎ、妻と娘は宮廷を追われ、567年以降の消息は不明である。
同じ年に亡くなった人物
- Cyril of Scythopolis (558年)
- John the Silent (558年)
- ミヒラクラ (558年(推定))
同じ地域に関係する人物
- モーリス・ルネ・フレシェ (1973年没)
- マルセル・ダリオ (1983年没)
- トマ・ド・マイ・ド・ファヴラ (1790年没)
- ルイ・ジェームズ・アルフレッド・ルフェビュール=ヴェリー (1869年没)
- ムハンマド・ムザイリ (2010年没)