伝記
スタニスワフ1世レシチニスキは、ポーランド・リトアニア共和国の国王で、のちにロレーヌ公となった人物である。フランス語ではスタニスラス・レクザンスキと呼ばれる。1677年10月20日にリヴィウで、大貴族レシチニスキ家のラファウと、アンナ・ヤブウォノフスカの子として生まれた。名は、名付け親の祖父であるヘトマンのスタニスワフ・ヤブウォノフスキにちなむ。フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語に通じ、ヨーロッパ各地を旅して教育を仕上げた。1698年にカタジナ・オパリンスカと結婚して大きな財産を得て、アンナとマリアの二人の娘をもうけた。同年に王冠領の酒杯官となり、のちに父の跡を継いでポズナン県知事と元老院議員になった。
大北方戦争のさなかの1704年、スウェーデン王カール12世がポーランドに侵入し、アウグスト2世を廃した。スウェーデンは賄賂と軍隊の力で、6人の城代と数十人のシュラフタの集会を開かせ、7月2日、27歳のスタニスワフを国王に選ばせた。潔白で有能だが、人を引きつける力も政治的影響力も乏しく、国王には不向きだったとされる。1705年9月24日に豪奢な戴冠式を行い、カール12世はポーランドの王冠がザクセンにあったため新しい王冠と王笏を用意した。しかし彼の地位はスウェーデン軍の成功に頼っていたので、1709年のポルタヴァの戦いでカール12世が敗れると、その権威は消えた。アウグスト2世が復位し、多くの貴族に王位を否認されたスタニスワフは、スウェーデン領ポメラニアへ撤退して、王の称号を保ったまま退位し、プファルツ=ツヴァイブリュッケンを与えられた。1713年には遠征を試みて失敗し、ベンデルで1年ほど拘束された。1716年に暗殺が企てられたが、守られた。
1718年にカール12世が没すると、一家はフランスのアルザスのヴィサンブールに移り、摂政オルレアン公が出す年金で質素に暮らした。1725年、娘マリアがルイ15世の妃に選ばれ、スタニスワフはその知らせに驚き、喜んだ。結婚は宮廷で冷遇されたが、国王の舅となり、シャンボール城に住んだ。国王からは終生好かれなかったが、王妃やその子らとは親しく、手紙も多く交わした。1733年にアウグスト2世が没すると、ルイ15世は舅の復位を支持してポーランド継承戦争が起こった。スタニスワフは御者に身をやつして中央ヨーロッパを駆け、9月9日にワルシャワに現れて、再び国王に選ばれた。ロシアはこれを認めず、アウグスト3世を推した。1734年10月からダンツィヒが包囲され、フランス艦隊が来援したが降伏し、6月30日に市は降伏した。小作農に変装して2日前に脱出し、ケーニヒスベルクに現れた。1736年、王位を退いた。
ルイ15世は、ロレーヌ公フランソワ3世から譲渡させたロレーヌ公国とバル公領を、補償として舅に1代限りの条件で与えた。スタニスワフはリュネヴィルに住み、科学と慈善に余生を捧げ、1750年にはリュネヴィルとナンシーに自分の名を冠した施設を設立した。晩年にはルソーと論戦も交わした。1766年に88歳でリュネヴィルで没し、ロレーヌはフランス王領に併合された。菓子のマドレーヌは、1755年に彼のために女性が作ったという説が有力である。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・クリストフ・ゴットシェート (1766年没)
- レオポルト・フォン・ダウン (1766年没)
- 鄭燮 (1766年没)
- ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート (1766年没)
- フレデリク5世 (デンマーク王) (1766年没)
同じ地域に関係する人物
- カトリーヌ・ド・ブルボン (1559-1604) (1604年没)
- ロベール・オッセン (2020年没)
- シャルル2世 (ロレーヌ公) (1431年没)
- エミリー・デュ・シャトレ (1749年没)
- フィリッパ・ファン・エフモント (1547年没)