伝記
トマス・ペラム=ホリスは、イギリスの政治家で貴族である。初代ニューカッスル公爵として知られ、ホイッグ党に属し、2期にわたって首相を務めた(1754年3月から1756年11月、1757年7月から1762年5月)。1693年7月21日、初代ロートンのペラム男爵トマス・ペラムと、妻グレースの長男として生まれ、出生名はトマス・ペラムだった。1711年7月に母方の伯父である初代ニューカッスル=アポン=タイン公爵ジョン・ホリスが没し、その遺領を相続したことから、ペラム=ホリスの複合姓に改めた。ウェストミンスター・スクールを経て、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに進んだが、卒業はしなかった。1748年には同大学の総長に就いた。
1712年2月に父からロートンのペラム男爵位を継ぎ、貴族院議員となった。1714年にアン女王が没すると、ハノーヴァー朝への支持を表明し、ジョージ1世の即位にあたり、母方の祖父と同じくホートン子爵とクレア伯爵に叙された。1715年のジャコバイト蜂起では政府側に立ち、弟ヘンリーとともに部隊を招集したため、同年8月に伯父と同じニューカッスル=アポン=タイン公爵に叙された。1717年4月には第2代ゴドルフィン伯爵の娘と結婚した。同年にサンダーランド伯爵の派閥に移り、枢密顧問官に任命された。1718年にガーター勲章を授与された。
1724年に南部担当国務大臣カートレット男爵がウォルポールに解任されると、その後任となった。弟ヘンリー・ペラムも戦時大臣として入閣し、ペラム兄弟はホイッグ党の中枢となっていく。1727年の解散総選挙ではウォルポール首相の参謀として選挙戦を指揮し、機密費での買収や官職を餌にした取り込みにより、与党は400議席以上を獲得したが、この手法は野党から腐敗と批判された。1739年にジェンキンスの耳の戦争が始まると、ウォルポールの政治力は急速に衰え、1742年2月に内閣は総辞職した。後任のウィルミントン伯爵の内閣でも留任し、1743年に伯爵が没して弟ヘンリー・ペラムが首相になると、引き続き弟の政権を支えた。1748年に北部担当国務大臣に転じ、1751年には対立したベッドフォード公爵を内閣から追い出した。
1754年3月に弟が没すると、組閣の大命を受けたのが彼だった。しかし貴族院議員であり、庶民院で頼れる有力者を見つけられなかったため、第一次内閣は発足当初から不安定だった。北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が勃発し、イギリスは陸でも海でも敗れた。1756年5月にフランスがミノルカ島に上陸し、イギリスは宣戦して七年戦争となったが、ミノルカ島奪還に向かったジョン・ビングの艦隊は敗北した。世論の批判が高まり、ビングは軍法会議にかけられて銃殺された。大ピットの協力も得られず、11月に総辞職した。
1757年6月、更迭されていた大ピットと手を組んで庶民院の基盤を固め、第二次内閣を発足させた。ニューカッスル公は軍事費の調達という役割を担い、戦争指導は大ピットが担った。プロイセンのフリードリヒ2世と結び、海軍力で北アメリカやインドのフランス勢力に対峙し、1759年には世界各地でフランスを破り、この年は「奇跡の年」と呼ばれた。しかし1760年にジョージ3世が即位し、国王の重臣ビュート伯爵が発言力を増すと、早期講和を求める国王側と、完全勝利を主張する大ピットが対立して、大ピットは1761年10月に辞職した。プロイセンへの供与金の廃止が決まると、公は1762年5月に辞職した。1768年11月17日に没した。
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