HISTORICAL PERSON · 1770年没

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ

ヴェネツィア生まれのバロック最後期の画家で、同共和国の美術の伝統を締めくくる巨匠。フレスコの名手で、仰視法の天井画を描き、生前は欧州全土で名声を得た。1761年にスペイン王の依頼でマドリードへ移った。

生涯
1770年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / マドリード)
出生地
イタリア共和国(ヴェネツィア)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロは、1696年3月5日にヴェネツィアで生まれ、1770年3月27日にマドリードで没した、バロック最後期のイタリアの画家である。本名はジャンバッティスタ・ティエポロ。18世紀のイタリアを代表する画家であり、ヴェネツィア共和国の美術絵画の伝統を締めくくる最後の巨匠とされる。複数のヨーロッパの宮廷で仕事をし、画家が国境を越えて動く啓蒙時代の特徴を示した。

6人兄弟の末っ子で、父ドメニコは商船の船長、母はオルセッタ・マランゴンであった。生家はヴェネツィアのカステッロ地区のサン・ドメニコ教会の近くにあり、洗礼を受けた翌年に父が死去して、一家は経済的な困難が続いた。1710年ごろ、折衷的なグレゴリオ・ラッザリーニの工房に弟子入りし、ヴェネツィアの伝統と、壮大で劇的な構図を好む趣味の初歩を学んだ。やがてベンコヴィッチやピアッツェッタの暗い画風へ向かい、セバスティアーノ・リッチの影響も強く受けた。1715年にはオスペダレット教会の祭壇の弓形壁に、激しい明暗を用いて使徒の像を描き始め、当時のドージェ、ジョヴァンニ2世・コルネルのために宮殿で絵画や肖像画も手がけた。1717年にはヴェネツィアの画家組合に名が初めて現れ、同年にラッザリーニの工房を離れた。

1719年11月21日、フランチェスコ・グアルディとジャンアントニオ・グアルディの姉であるマリア・チェチリア・グアルディと秘密裏に結婚し、この結婚は50年以上続いた。少なくとも10人の子が生まれ、うち4人の娘と3人の息子が成人した。息子のジョヴァンニ・ドメニコとロレンツォは画家となり、父の助手を務めた。1719年から1720年には、パドヴァ近郊のバリオーニ邸の広間を壁画で覆い、壁を貫いて無限の空間が広がるような効果を生み出した。この仕事を機に、建築の偽装飾を描く画家メンゴッツィ・コロンナとの協力が始まった。1722年には、聖バルトロマイの殉教を描いてサン・スタエ教会の使徒連作に加わった。1724年にオスペダレット教会の天井に『イサクの犠牲』を描いたのを最後に暗い色調から離れ、明るい色と太陽のような光の中へ画風を移していった。

バロック的な躍動感とロココ的な優美な装飾性を兼ね備えた作風は、生前はヨーロッパ全土で名声の極みを迎えた。稀代のフレスコ画の名手であり、瑞々しく壮麗な作品は底抜けに明るくきらびやかである。宮殿や貴族の館を彩る天井画では、下から見上げる仰視法を取り入れ、錯覚の効果を完璧なものにした。ヴェネツィア派のティントレットやヴェロネーゼを受け継ぎつつ、それを躍動的に展開した。代表作には、ヴュルツブルクのレジデンツの天井画『オリュンポス山と四大陸の寓意』、『クレオパトラの饗宴』、『無原罪の御宿り』などがある。

1761年にスペイン王カルロス3世の依頼でマドリードの宮廷の天井画を描くために移り、天井画や装飾画を手がけた。ただし同じくスペインに招かれた新古典主義の画家アントン・ラファエル・メングスとは対立が生じた。1770年3月27日にマドリードで没した。没後に台頭した新古典主義は甘美な装飾性を否定したため、評価は急速に下降した。

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