伝記
ナルセスは、東ローマ帝国の政治家で宦官、のちに将軍となった人物である。478年に生まれ、573年に没したとされるが、没年は567年とも574年ともいわれ、生年も478年から480年のあいだで説が分かれる。ユスティニアヌス1世に仕え、東ゴート王国を征服した。
アルメニアの生まれで、ペルシア領となっていたペルサルメニアの出身とされ、アルメニアの貴族カムサラカン家に属したという。若いころのことや、いつコンスタンティノープルに来たか、どのような経緯で宦官になったかは分かっていない。プロコピオスの記述に初めて名が現れるのは530年で、すでに大侍従長のもとで皇帝の財務を扱い、支払いを担当する財務官であった。昇進を重ね、宦官から成る近衛の長となり、やがて自身が大侍従長と軍司令官になった。宦官がパトリキウスになることは禁じられていたが、ユスティニアヌスはこれを押し切り、ナルセスにその位を与えた。532年のニカの反乱では、皇帝か皇妃テオドラから資金を預かり、青党の首領たちを買収した。反乱者が担ごうとしていたヒュパティオスが緑党の人物であり、ユスティニアヌスが常に青党を優遇してきたと説いたところ、青党は反乱者に背を向けた。ベリサリウスの軍は競馬場を取り囲み、ヒュパティオスは捕らえられて皇帝の前に引き出された。
この功績で、ナルセスは約7,000の兵を率いてイタリアのベリサリウスを助けに送られた。ところが二人の仲は悪くなり、ナルセスは本国に呼び戻された。その間に東ゴートの新王トーティラが各地で東ローマ軍を破り、ローマやナポリを奪い返した。皇帝はベリサリウスを更迭し、代わって東ゴート王国征服の総司令官にナルセスを任命した。552年4月、ナルセスは大軍を率いて北からイタリアに入り、工兵隊を使ってラヴェンナを落とし、補給を行ってローマへ進んだ。ブスタ・ガロールムの高原でゴート軍と対峙すると、中央の歩兵を密集陣形にして突撃を受け止め、左右に置いた弓兵で敵を殲滅し、トーティラを討ち取った。後を継いだテーイアは、サレルノ近郊のモン・ラクタリウスの戦いで戦死し、東ゴート王国は滅んだ。軍務の経験がない官僚の出でありながら、ベリサリウスの戦術を受け継ぎ、総司令官就任から4年目に、ユスティニアヌスの悲願であったイタリア半島の征服を果たした。
その後は約12年イタリアにとどまって総督を務め、皇帝の指示に従って統治を整えた。ユスティニアヌスの死後は、跡を継いだユスティヌス2世の信任を得られなかったらしく、職を解かれてナポリ近郊に退き、そこで没した。565年に作られたとされる碑文は、ナルセスが執政官に任じられたと記すが、541年以降は皇帝のみが就ける官職だったため、歴史学者の井上浩一は、功績と人気が生んだ誤解だろうとみている。
同時代の歴史家アガティアスは、小柄で細身だが体も精神も想像以上に強く、頭の回転が速く時勢に適応できる人物と評した。信仰心が篤く、聖母マリアに特別の崇敬を寄せ、戦いの前に聖母に問うたとも伝えられる。貧者に寛大で、教会の修復に力を尽くしたともいわれ、尊厳と人間味のある振る舞いを称賛する声は一致している。最高指揮官を引き受ける前には、引退後に身を寄せるつもりでカッパドキアに教会と修道院を建てさせたという。助祭パウルスは、戦争の武器よりも神への祈願によって勝利を得たと述べている。ただ、その信仰は個人的なもので、当時の宗教論争には加わらなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ロザムンダ (573年没)
同じ地域に関係する人物
- Fernando Cento (1973年没)
- カルロ・ディ・パルマ (2004年没)
- ジャン・ルイジ・ポリドロ (2000年没)
- フリードリヒ4世 (シュヴァーベン大公) (1167年没)
- レナート・サルヴァトーリ (1988年没)