伝記
デイヴィッド・ヒュームは、ユリウス暦1711年4月26日(グレゴリオ暦5月7日)に生まれ、1776年8月25日に没したスコットランドの哲学者である。ロックやバークリーらと並ぶ英語圏の代表的な経験論者で、生得観念を否定した。歴史家、政治思想家、経済思想家、随筆家としても知られる。生涯独身で、子を残さなかった。
エディンバラ近郊の別荘で、ジョーゼフ・ヒュームとキャサリンの次男に生まれた。1713年に父を亡くし、1723年にエディンバラ大学に入ったが、哲学以外に関心を持てず、1725年に退学して、自宅で哲学の研究に没頭した。1729年に精神を病み、翌年の冬には回復に向かった。1734年にロンドンへ出て、ブリストルの商会で働いたが、夏には退職してフランスに渡り、ランスを経て、ラ・フレーシュで『人間本性論』を書いた。1737年に帰国して出版に努め、1739年に第1・2篇、1740年に第3篇を出した。当初は匿名で、ほとんど注目されず、のちに自ら印刷所から死産したと評した。1741年から出した随筆集『道徳政治論集』は、同じく匿名ながらよく売れた。エディンバラ大学教授などの職を望んだが、懐疑論者、無神論者と攻撃され、終生得られなかった。
1745年にアナンデール侯爵の家庭教師となり、翌年に辞めて、セント=クレア中将の法務官としてフランスのブルターニュ遠征に加わった。1747年にはウィーンとトリノへの軍事使節団に副官として同行し、同年『人間知性についての哲学的試論』を出版した。1750年頃にアダム・スミスと出会い、友人となった。1751年に『道徳原理研究』、1752年に『政治論集』を出し、エディンバラ弁護士協会の図書館長になった。1754年から『イングランド史』を刊行し、第1巻は売れなかったが、1762年の全6巻完結のころには反響が大きく、経済的にも恵まれた。没後も読まれ、1894年までに少なくとも50版を重ねた。1763年にハートフォード卿に誘われてパリへ行き、ダランベールやディドロと交流した。1765年に正式の秘書官となり、代理大使を務め、12月にルソーと出会った。ルソーとともに帰国したが、ルソーは次第に疑念を抱き、1766年6月に絶交を宣言した。1767年には国務大臣の次官に就き、翌年辞任した。
『人間本性論』では、人間の知覚を印象とそこから作られる観念に分け、全ての観念は印象から生まれると主張した。因果関係に必然的な結合は認められず、繰り返しの経験による心理的な習慣で成り立つにすぎないとした。後世これは懐疑主義的と評価され、カントはヒュームが独断のまどろみを破ったと述べた。倫理では、理性は感情の奴隷であり、倫理は共感を通じて情念から生まれると考えた。1776年1月に遺言状を作り、4月に自伝を書き、『自然宗教をめぐる対話』の出版を甥に託して、8月25日午後4時ごろに没し、エディンバラのカールトン・ヒル墓地に埋葬された。その思想はジェファーソンやフランクリンらアメリカ建国の父たちにも影響を与え、ラッセルは因果の必然性を否定した懐疑論を克服した哲学はいまだ現れていないと述べた。20世紀には分析哲学の一部潮流に強く影響し、若き日のドゥルーズもヒューム主義を採った。
同じ年に亡くなった人物
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- ネイサン・ヘイル (1776年没)
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- ヨハン・アドルフ・シャイベ (1776年没)
- フィリップ・ルートヴィヒ・スタティウス・ミュラー (1776年)
同じ地域に関係する人物
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