伝記
ブリュゴスは、紀元前490年から470年ごろに活動した、アテナイの主要な陶工の一人とされる人物である。工房の壺の年代と、赤像式陶器の様式の編年にもとづいてこの時期に置かれている。現存する作品の大半は、酒宴で使う杯(キュリクス)で、その多くに酒を飲む場面や饗宴にかかわる場面が描かれている。このことから、ブリュゴスの工房は、とくに饗宴用の杯の生産を専門にしていたのかもしれないと考えられている。
「ブリュゴスが私を作った」という銘をもつ飲用の杯は、現存するもので14点を数える。少なくとも12点とも記される。銘は杯の脚の裏に書かれることが最も多く、これは当時のアテナイの陶工が作品に署名する一般的な場所だった。この銘の位置については、トンクスが指摘している。署名のある器がほぼ杯ばかりであることも、杯が工房の主力製品だったことを示す。杯以外の器に署名が見られる例は、ほとんどない。
研究者は、ブリュゴスを5世紀初めのアテナイで、複数の画家を抱えて活動した工房の長と見ている。この工房の杯は薄く滑らかで形が整っており、粘土の準備と轆轤成形に高い技量があったことをうかがわせる。この工房は、初期古典期のアテナイの陶器生産で重要な役割を果たした。ブリュゴスの杯に絵を描いた画家のうち、最も名高いのがブリュゴス画家である。人物の細部や自信に満ちた線描が特徴とされる。ほかにブリセイス画家やドキマシア画家も同じ工房で働いたらしい。複数の画家の作品があることから、ブリュゴスは自ら壺を描いたのではなく、工房を営んでいたと考えられる。
ブリュゴスとブリュゴス画家は深く結びついているが、同一人物ではない。ブリュゴス画家という呼び名は、これらの杯の多くを装飾した画家に近代の学者がつけたものである。ブリュゴスの作った器にはきわめて質の高い絵が多かったため、初期の研究では二つの名が一人を指すと見なされることもあった。ブリュゴス画家の作とされる壺は約200点あるのに対し、ブリュゴスの署名がある器は14点にとどまる。この差も、陶工が自分で絵付けもしたという初期の想定の理由を説明する。しかし署名と様式の分析はこの見方を支持しない。さらにカプア出土の「ブリュゴスの墓」の一括資料を復元したウィリアムズの研究が、ブリュゴス銘の陶器に複数の画家が関わることを示した。そのため、陶工と画家が同一人物とは考えにくく、現在の多くの学者は、ブリュゴスを陶工、ブリュゴス画家を工房で最も腕の立つ画工と理解している。
ブリュゴスの墓とは、南イタリアのカプア近郊で見つかった紀元前5世紀の墓である。19世紀の発掘で、ブリュゴス銘の杯が出土したと伝えられる。この杯と、ブリュゴス工房の画家たちに結びつく質の高い数点があることから、ビーズリーはこの墓を「墓II」、つまりブリュゴスの墓と呼んだ。1992年にウィリアムズが博物館の台帳や記録文書を調べ、この墓から出たとされる品々を復元し、工房の杯が当初の副葬品に含まれていたと結論づけた。アテナイの陶器が南イタリアへ運ばれていたことの裏づけとされる。ただ、発見当時に記録が取られず、19世紀に古美術市場へ散逸したため、墓の元の内容は確実には確かめられない。そのため墓の内容は、発掘時の記録ではなく、博物館の収蔵記録や古美術商の文書をもとに組み立てるほかない。ラバの頭の形の器もブリュゴスの作として知られる。
同じ年に亡くなった人物
- クリトン (アテナイ人) (紀元前 500年(推定))
- Ageladas (紀元前500)
- デマラトス (紀元前 500年(推定))
- ドゥリス (紀元前500)
- ブリュゴスの画家 (紀元前500)
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