HISTORICAL PERSON · 1781年没

ゴットホルト・エフライム・レッシング

ドイツ啓蒙思想を代表する詩人・劇作家・批評家。フランス古典主義からの解放を目指してドイツ文学の方向を定め、ゲーテやシラー、カントらに影響を与えた。

生涯
1781年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州 / ブラウンシュヴァイク)
出生地
ドイツ連邦共和国(カメンツ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ニーダーザクセン州)

伝記

ゴットホルト・エフライム・レッシングは、1729年1月22日にザクセンの小さな町カメンツで生まれ、1781年2月15日にブラウンシュヴァイクで亡くなったドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家である。ドイツ啓蒙思想を代表する人物で、フランス古典主義からの解放を目指し、その後のドイツ文学のあり方に大きな影響を与えた。父は聖職者で、のちにカメンツの主任司祭となった。母はユスティーネ・ザロメ・フェラーである。1737年から1741年までカメンツのラテン語学校で学び、続いてマイセンのザンクト・アフラ校に進んだ。学業に熱心で、校長からは「二頭分の飼葉のいる騾馬」とその吸収力を称賛された。

1746年にライプツィヒ大学に入って神学を学んだが、神学よりも言語学などの講義に関心を持った。女優カロリーネ・ノイバーが座長を務める劇場に惹きつけられ、フランスの戯曲を訳してやり、劇への関心を深めた。最初の喜劇『若い学者』は1748年にノイバー夫人の手で上演された。父はこの交遊を好まなかったため、医学を学ぶ名目で大学に在籍を続けた。ノイバー一座が1748年に解散すると、ヴィッテンベルクを経て、従兄弟で記者のクリストロープ・ミリウスを頼ってベルリンに移った。1748年から1760年までは、ライプツィヒとベルリンで著述家、編集者として働き、ヴォス新聞などの批評や編集に携わった。1750年にはミリウスと演劇誌を創刊し、4号で終わったが、真剣な演劇批評家として世に知られた。1752年にヴィッテンベルクで修士の学位を取った。

1755年には、ドイツで初のブルジョワ劇とされる『ミス・サラ・サンプソン』を発表した。英国の戯曲『ロンドン商人』を基にし、性格描写には小説家リチャードソンの影響が強い。この作品はフランクフルト・アン・デア・オーダーでの初演で大好評を博した。ベルリンではモーゼス・メンデルスゾーンと親交を結んだ。七年戦争で計画していた外遊は挫折し、1760年からはブレスラウで将軍タウエンツィーエンの秘書を5年間務めた。ここで有名な『ラオコオン』に着手し、1766年に刊行してギリシア美術を論じ、後の美術思想に大きな影響を与えた。1767年には喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を発表した。

1767年から3年間、ハンブルク国民劇場で劇の批評を担当し、「ドラマトゥルギー」という語を使って、最初のドラマトゥルク(劇作顧問)となった。ここで、のちに妻となるエーファ・ケーニヒと出会った。『ハンブルク演劇論』を書いたが、海賊版による損失などで劇場は3年で閉鎖された。1770年、ブラウンシュヴァイク公の命でヴォルフェンビュッテルの公爵図書館の司書となった。1772年に『エミーリア・ガロッティ』を発表し、1776年に47歳で未亡人のエーファと結婚したが、彼女は1778年に産褥で亡くなり、子も生後間もなく夭折した。晩年は宗教をめぐる激しい論争の中に身を置き、1779年に『賢者ナータン』を、1780年に『人類の教育』を著した。ドイツで劇作を専門の職業とした最初の人物でもある。その活動はゲーテやシラー、カント、ヘルダーなど当時のドイツ文学と思想に多大な影響を及ぼし、死後には「スピノザ論争」が起こった。

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