伝記
アウタリは、ランゴバルド王国の王(在位584年〜590年)である。540年ごろ、ランゴバルド王国の創始者アルボインの甥にあたるクレフの子として生まれた。誕生はランゴバルド族がパンノニア(現在のハンガリー西部)に定住していた時期にあたる。即位前の人生はほとんど知られておらず、574年に父が暗殺されたあとの動向も明らかでない。
568年、ランゴバルド族はアルボインに率いられてイタリア半島に侵入し、王国を建てた。しかしアルボインは572年に暗殺され、跡を継いだクレフも574年に暗殺された。その後、王を置かず、有力な公(ドゥクス)たちが各地を支配する10年間の「公爵の時代」が続いた。584年、フランク王国のアウストラシア王キルデベルト2世が東ローマ皇帝マウリキウスと外交関係を結ぶと、フランクと東ローマの間に挟まれたイタリアのランゴバルド領が危うくなると考えた公たちが、再び王を立てることにした。選ばれたのがアウタリである。王の称号に加え、王が従来保持したパヴィア公領と、ほかの公領の収入の半分を受け取り、強力な王の軍を維持できるようにされた。オドアケルや大テオドリックの伝統に倣って「フラウィウス」の名を名乗った。これは、ランゴバルド人だけでなくイタリアの全住民に対する支配を正当化し、西ローマ帝国の遺産を反ビザンツの立場から主張する、政治的な選択だったとされる。
王権の回復は容易ではなかった。公たちの全員が、王の不在がもたらした自立を手放すことに賛成したわけではない。585年には公ドロクトゥルフトが反乱を起こし、東ローマ領のブレシェッロの城に逃れた。アウタリはこれを攻め落として破壊したが、ドロクトゥルフトはラヴェンナ総督府へ逃れ、総督スマラクドゥスのために、スポレート公の手にあった港クラッシスを取り戻した。同じ年、アウタリは総督と3年間の停戦を結んで、一時の平和を得た。しかし587年には、トレント公エウィンに命じてイストリアを攻めさせ、多くの戦利品と貢納を得るなど、自ら和を破った。588年には、別の指揮官が半年間の包囲の末にコモ湖の島のコマチーナ要塞を落とし、ポー川流域の征服を終えた。ここは北イタリアに残る東ローマ軍の最後の拠点だった。
国内では、ランゴバルド人に土地の産物の3分の1を割り当てる「ホスピタリタス」の制度を改め、住民を富の等級に分けて、軍人への納税を定める方式に替えた。ラテン系の大地主貴族には打撃だったが、民衆には安定をもたらし、王国に均衡を与えたとされる。庶民の成長を促し、ローマ人の住民が恩恵を受ける平和が生まれて、パウルス・ディアコヌスはこれを「黄金時代」と描いた。また、アウタリ自身はアリウス派だったが、イタリア系住民のカトリックに近づこうとし、教皇ペラギウス2世に聖遺物を送ったという。のちにフランク人や東ローマ人との対立が深まると、ローマ式の洗礼を禁じるなどカトリックに反する措置も取ったとされる。
結婚については、585年にアウストラシアのフランク軍を退けると、フランクも合意を求め、アウタリはキルデベルト2世の妹との婚約の話にまで進んだ。しかし太后が、カトリック教徒がアリウス派に嫁ぐべきでないとして反対し、実現しなかった。そこでアウタリはバイエルンとの同盟を固め、589年6月15日にヴェローナでバイエルン公ガリバルド1世の娘テオデリンダと結婚した。この結婚で、両国の国境がサルルノに定められた。590年9月5日、在位6年ほどで死去した。後継者にはテオデリンダの意向でトリノ公アギルルフが選ばれ、アギルルフがアウタリの路線を引き継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 平原王 (590年没)
- ギスルフ1世 (フリウーリ公) (590年没)
- ペラギウス2世 (ローマ教皇) (590年没)
- ホルミズド4世 (590年没)
- グアラム1世 (590年没)
同じ地域に関係する人物
- カルロ・チポラ (2000年没)
- カルラ・マランゴーニ (2018年没)
- Luigi Carlo Borromeo (1975年没)
- グリムヴァルト (671年没)
- ジュゼッペ・ガブリエル・バルサモ=クリヴェリ (1874年没)