HISTORICAL PERSON · 1783年没

ジャン・ル・ロン・ダランベール

18世紀フランスの哲学者・数学者・物理学者。ディドロとともに『百科全書』の責任編集者を務めて序論を執筆し、1743年に『動力学論』を刊行して脚光を浴びた。「ダランベールの原理」を明らかにした。

生涯
1783年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン・ル・ロン・ダランベールは、18世紀フランスの哲学者であり、数学者、物理学者である。1717年11月16日にパリで生まれ、1783年10月29日に同地で没した。ディドロらとともに、百科全書派の知識人の中心にいた人物である。

母は、のちに著名な人々を集めるサロンを開いたクローディーヌ・ゲラン・ド・タンサンである。父については、騎士ドゥトゥーシュ・カノンとする説、またアーレンベルク公爵とする最近の仮説があり、はっきりしない。生まれた翌日、母に捨てられ、使用人によってノートルダム大聖堂の北塔に隣接するサン=ジャン=ル=ロン礼拝堂の階段に置かれた。名はこの礼拝堂の聖人にちなんで付けられたジャン・ル・ロンである。まず孤児院に入れられたが、すぐに見つけ出され、公爵の腹心だった騎士ドゥトゥーシュにより、ガラス職人の妻ルソー夫人のもとに預けられた。ドゥトゥーシュは認知こそしなかったが、秘密裏に教育費を支援し、遺言で少額の年金を残した。養母とは五十年あまり一緒に暮らした。母のタンサン夫人は、一切の接触を拒んだ。

コレージュ・デ・カトル・ナシオンで優れた成績を収め、文学の学士の資格を得て、法学校の講義にも出た。はじめはダレンベールの綴りで登録していたが、のちに今の姓に改め、生涯これを用いた。1738年に弁護士の資格を得たが法律には関心が持てず、医学を学んだのち、強く惹かれた数学に転じた。1739年、21歳で科学アカデミーに最初の数学の論文を提出した。翌年には、水切りの現象を科学的に説明する論文を書き、この二つのおかげもあって1741年にアカデミーの会員となった。1743年には『動力学論』を刊行して、ヨーロッパ中で注目された。この書は、ニュートンとラグランジュの間を埋める力学史上の段階とされる。ニュートン力学を肯定しながら、その中にあった神の影響を払い除けたことが大きな功績で、「ダランベールの原理」もここで示された。1744年には偏微分の計算という新しい数学の分野を開き、代数学の基本定理についても、n次の方程式にn個の根があることを見抜いたと伝えられる。同じ時期に、アカデミーで最大の好敵手となったのがクレローである。

サロンの常連として、ヴォルテールの友人でもあった。1746年にディドロと出会い、翌年に二人で『百科全書』の責任編集者となった。200人を超える執筆者による5年の作業の末、1751年に第1巻が出た。ダランベールはこの巻の序論を書いて、新しい知の秩序を説明した。さらに「力学」「原因」「加速的」など150の項目も執筆し、力学は単なる実験科学ではなく、混合応用数学の第一部門だと主張した。1754年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1757年に「ジュネーヴ」の項を書くと、ルソーの強い反論を呼んだ。王権からの圧力も強まるなか、1759年に責任編集者を退いた。その後、1761年から1780年にかけて『数学小論集』を刊行した。1760年代以降は、関心が哲学や文学に向かい、健康も悪化して、執筆は衰えた。1768年にパリへ出てきたラプラスの才能を認め、軍学校の数学教授職に就く助けをしている。

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