伝記
ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ(イタリア語名ルッジェーロ・ジュゼッペ・ボスコヴィッチ)は、1711年5月18日に生まれ、1787年2月13日に没したイエズス会司祭であり、天文学者、物理学者、数学者である。アドリア海沿岸の都市ドゥブロヴニク(当時はラグーサ共和国)に生まれ、イタリア、イギリス、フランスで活躍した。そのほか哲学者、外交官、詩人、神学者、博識家としても知られる。
父ニコラ・ボスコヴィッチはラグーサの商人で、オスマン帝国領内を広く旅した人物であったが、息子は寝たきりになった父しか知らず、父は彼が10歳のときに没した。母パオラ・ベッテラは、17世紀初めにベルガモからドゥブロヴニクに移ったイタリア系の教養ある商家の出で、頑健で活発、陽気な性格の女性として描かれ、103歳まで生きたという。彼は七人目の子で、兄の一人はローマに出てイエズス会の学者・司祭となり、別の兄ペタルは詩人で、オウィディウスやモリエールを訳し、1729年にヴェネツィアで宗教詩集が出版された。叔父イリヤは1692年にミサの最中に盗賊に殺されたという。8、9歳のときにイエズス会のラグーサの学院に入り、記憶力がよく頭の回転が速く深いとの評判を得た。
1725年9月16日にドゥブロヴニクを発ってローマへ向かい、教育のためイエズス会に託された。1731年に修練院に入り、最初の2年は数学と物理学を学んだ。進歩が早かったため、1740年にはグレゴリアン大学(当時はコレッジョ・ロマーノ)の数学教授に任じられた。ギリシア幾何学の著作を深く研究して、厳密な論証の腕を身につけており、任命の数年前に、太陽の表面の黒点の観測から太陽の赤道を求め、自転周期を決定する解法で名を上げていた。
教授としての多忙な務めの中でも、水星の太陽面通過、オーロラ、地球の形、恒星の観測、地上の重力の不均一など、多くの分野で数多くの論文を発表した。1750年からは約2年にわたり、ローマとリミニの間の緯度差2度にあたる子午線弧の測量に従事した。1753年には月に大気がないことを発見したともされる。三つの観測から惑星の軌道を計算する方法や、回転する天体の赤道を決める最初の幾何学的方法も生み出した。数学では、誤差の絶対値の合計を最小にして回帰式の係数を求める最小絶対値法を初めて用いたことで知られる。物質の力の起源を、点状の均一な原子に還元する考えを1758年の『自然哲学の理論』に著し、後の原子論者に影響を与えた。大陸におけるニュートンの万有引力の法則の最初の支持者の一人で、光学、天文学、重力の理論、気象学、幾何学にわたる70冊の著書がある。
1764年にパヴィア大学の教授となり、科学の仕事のほかに外交の仕事でもウィーンやロンドンなどヨーロッパ各地で活動した。1773年から1783年の間は、フランス国王に招かれてパリで暮らした。最後にミラノで没した。クロアチアが独立した後に最初に発行された通貨のクロアチア・ディナールでは、すべての紙幣にボスコヴィッチの肖像が描かれていた。小惑星(14361)ボスコヴィッチは彼にちなんで命名された。
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