伝記
トマス・ゲインズバラは、1727年5月14日に生まれ(洗礼の日とする資料もある)、1788年8月2日に没した18世紀イギリスの画家である。肖像画と風景画を専門とし、素描や版画も手がけた。ライバルのジョシュア・レノルズとともに、18世紀のイギリス美術で最も重要な画家の一人であり、王立美術院の創設会員でもあった。
今日では優れた肖像画家として知られ、生涯に700点以上の肖像画を残した。だが故郷サフォークの風景や自然をこよなく愛し、真に描きたかったのは風景で、「肖像画は金のために、風景画は楽しみのために描く」と言ったと伝えられる。代表作『アンドリューズ夫妻像』では、モデルの夫妻は画面の向かって左端に追いやられ、キャンバスの右半分は夫妻の領地の田園風景の描写に費やされている。風景画家としては、のちのコンスタブルなどに多大な影響を与え、リチャード・ウィルソンとともに18世紀イギリスの風景画の流派の創始者とされる。それでも、いやいや描いたという肖像画の中にも傑作が多く、『グレアム夫人像』の流麗なタッチと、若い貴婦人の侵しがたい気品と威厳を描き尽くした表現力は、他の追随を許さない。
ロンドン北東のサフォーク地方のサドベリに生まれた。羊毛や織物を扱う職人の家の末の息子で、母メアリーは牧師ハンフリー・バローズの妹であった。兄ハンフリーは、蒸気を別の容器で凝縮する方法を発明したといわれ、ジェームズ・ワットの役に立ったという。生家は現在ゲインズバラの家として、彼の生涯と芸術を伝える博物館になっている。幼い頃から素描の才能を示し、10歳のころには頭部や小さな風景、ミニチュアの自画像を描いていた。13歳のころに父に才能を見いだされ、1740年にロンドンに出た。彫版師ユベール=フランソワ・グラヴロのもとで修業し、ウィリアム・ホガースの周辺とも関わり、画家のフランシス・ヘイマンの仕事も手伝った。1743年には自らのスタジオを開いた。
1746年、第3代ボーフォート公の非嫡出子とされる娘マーガレット・バーと結婚した。公は年200ポンドの年金を彼女に設定していた。当時の作品は主に風景画で、売れ行きはよくなく、オランダの風景画を模倣して生活した後、1748年(1749年とする資料もある)にサドベリに帰り、肖像画に力を注いだ。風景画の中に小さく人物を描く様式の作品を描き、顧客を求めて1752年にサフォーク州の州都イプスウィッチに移った。ここでは顧客は地元の商人や地主が中心で、妻の年金を担保に借金もした。1759年には保養地バースに移り、ヴァン・ダイクの肖像画を研究して、流行の上流客を引きつけられるようになった。1761年から展覧会に出品し、1769年には王立美術院の創設会員に招かれたが、美術院との関係は難しく、1773年に出品をやめた。バース時代には、肖像画の注文に追われて好きな制作ができないことへの不満を友人への手紙に記し、ヴィオラ・ダ・ガンバを手に素朴な村へ行き、風景画を描いて余生を静かに送りたいと書いた。
1774年に最終的にロンドンへ移り、肖像画家としての地位を確立して、英国王室から多くの依頼を受けるようになった。1777年から王立美術院に再び出品した。その頃にはアクアチントや柔らかい地の凹版といった当時新しい技法による版画制作も試みた。晩年にはフィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグが作ったミニチュア機械劇場エイドフュージコンに刺激され、多くのガラス絵を描いた。1788年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ハインリヒ (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯) (1788年没)
- チャールズ・ウェスレー (1788年没)
- ジョン・ホワイトハースト (1788年没)
- サロモン・ゲスナー (1788年)
- ヨハン・ゲオルク・パリッチュ (1788年没)
同じ地域に関係する人物
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- アルバート・グレイ (第4代グレイ伯爵) (1917年没)
- エドムンド・アイアンサイド (初代アイアンサイド男爵) (1959年没)
- ウォーリス・バッジ (1934年没)
- デ・レイシー・エヴァンズ (1870年没)