伝記
ベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家であり、物理学者、気象学者でもあった。印刷業で成功したのち政界に進み、独立に大きく貢献した建国の父の一人である。1706年1月17日(ユリウス暦では1705年1月6日)に、ボストンのミルク・ストリートで生まれた。父ジョサイアはイングランドから移住した獣脂ろうそくの製造業者で、二度の結婚で17人の子をもうけ、ベンジャミンはその15番目だった。10歳で学校教育を終え、1718年に、『ニュー・イングランド・クーラント』紙を出す兄ジェームズの徒弟となった。次第に記者や編集者として頭角を現し、同紙の自由主義的な論調により兄が投獄されたときは、代わりに発行人を務めた。1723年に兄が市内での印刷を禁じられると、名義を替えて紙を続けたが、兄と喧嘩の末に縁を切り、同年秋にボストンを去ってフィラデルフィアで職を得た。
1724年に知事の勧めでロンドンへ行き植字工として働き、1726年に帰国して印刷業を再開した。1729年に『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収し、1731年にはアメリカ初の公共図書館であるフィラデルフィア組合図書館を設立して、これが他の都市の手本になった。1734年に『貧しいリチャードの暦』を発案して名を知られ、1737年にフィラデルフィアの郵便局長となった。1743年にアメリカ学術協会を設立し、1748年に印刷業から手を引いて公職に専念、1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(のちのペンシルベニア大学)を創設した。1752年、雷雲の下で凧を揚げ、凧糸の末端につないだライデン瓶で雷雲の帯電を調べる実験を行い、雷が電気であることを示した。この実験は感電の危険が大きく、翌1753年にはロシアの物理学者リヒマンがサンクトペテルブルクで雷の実験中に球電に打たれて死んでいる。1743年10月21日の月食が嵐で見えなかったあと、ボストンでは見えたと新聞で知り、嵐が移動していることに世界で初めて気づいたとされる。また、1783年のアイスランドの噴火後の異常な冷夏と厳冬から、大気中の塵が日射を弱めるのではないかと考えた。ただし、この凧揚げは本人ではなく婚外子が行ったともいわれる。避雷針や燃焼効率のよいストーブ、遠近両用眼鏡、グラス・ハーモニカなどを発明したが、特許は取らず社会に還元した。
1730年に事実婚の関係を結び、婚外子ウィリアムも育てた。ウィリアムは最後のニュージャージー総督となったが、独立戦争ではロイヤリストの立場をとり、革命派の指導者となった父とは決裂した。1754年に始まったフレンチ・インディアン戦争では軍需品の調達に奔走し、オルバニー会議で植民地の連合計画を提案した。1757年には待遇改善を求めてイギリスへ派遣され、科学業績を称えるオックスフォード大学の名誉学位を受けた。1775年に大陸会議から初代郵政長官に任命され、1776年には独立宣言の起草委員となり、ジェファーソンらとともに最初に署名した5人の1人となった。独立戦争中はパリに滞在し、田舎風の毛皮の帽子で社交界に現れ、人気を集めた。フランスの参戦と他国の中立に成功し、1783年のパリ条約の使節団にも加わった。1790年4月17日にフィラデルフィアで84歳で没し、葬儀は国葬であった。1728年頃に「道徳的完全に到達する計画」を立て、節制、沈黙、規律など十三の徳目を毎週一つずつ実践したことでも知られる。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・リビングストン (1790年没)
- エリーザベト・フォン・ヴュルテンベルク (1790年没)
- ジャック・アントワーヌ・ギベール (1790年没)
- ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公) (1790年没)
- フローラ・マクドナルド (1790年没)
同じ地域に関係する人物
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- ハリー・J・アンスリンガー (1975年没)
- リチャード・ラッシュ (政治家) (1859年没)
- ジム・ライトボディ (1953年没)
- チャールズ・サンダース・パース (1914年没)