伝記
ヨーゼフ2世は、神聖ローマ皇帝で、ハンガリー国王とボヘミア国王を兼ね、1765年から1790年まで在位した。1741年3月13日の午前2時に、ウィーンのホーフブルクで、マリア・テレジアと夫のフランツ1世の長男として生まれた。ヨーゼフの前には3人の女児が続いており、母に非常に愛された。翌日には教皇使節によって洗礼を受け、教皇ベネディクトゥス14世とポーランド王アウグスト3世が代父になった。きょうだいは15人で、うち6人は思春期前に亡くなっている。妹にマリー・アントワネットがいる。教育は母が選んだ教師たちが監督し、ラテン語や古典、数学、とくに歴史を学んだ。
1760年、同年齢のパルマ公女マリア・イザベラと結婚した。これはオーストリアとフランスの同盟に結びつく縁組で、肖像を気に入っていた彼は優美な妃を熱愛した。だが1763年にイザベラは天然痘にかかり、第2子を早産して亡くなった。絶望した彼は、妃の妹との結婚を望んだが実現せず、1765年に、バイエルン選帝侯で皇帝だったカール・アルブレヒトの娘マリア・ヨーゼファと再婚した。妻には見向きもせず、1767年に妻が天然痘で没したときは、見舞いも葬儀にも出なかった。以後は独身を貫いた。また、かつて母の婚約者候補だったプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し、啓蒙主義に傾倒して母を悲しませた。1765年に父が没すると皇帝に選ばれ、母との共同統治に入ったが、徹底した改革を望んで母としばしば衝突した。1772年には母の反対を押し切り、プロイセンやロシアとともに第1回ポーランド分割に加わった。1778年から1779年のバイエルン継承戦争では、崇拝するフリードリヒ2世と戦うことになり、イン川沿いのわずかな領土を得るにとどまった。
1780年、母の死で単独統治を始め、啓蒙専制君主として急進的な改革を進めたため、「皇帝革命家」「人民皇帝」とも呼ばれた。翌1781年に農奴解放令を発して、君主が農民を直接支配する道を開き、宗教寛容令でルター派、カルヴァン派、正教会の住民に公民権上の平等を認めた。教育や病人看護をしない修道院を解散させて財産を国家が握り、行政と司法を改め、貴族の特権を廃した。皇室の領地であったプラーター公園を市民に開放し、小学校を多数建て、ウィーン総合病院も開いた。文化では、ドイツ語を国語に定め、大学の授業言語をラテン語からドイツ語に改め、ドイツ・オペラの劇場の設立を考えた。モーツァルトを宮廷音楽家に雇い、サリエリを宮廷楽長に迎えたが、自身はイタリア趣味の人であった。
かねて憎んでいた姉マリア・アンナは宮廷から追放した。しかし改革の多くは抵抗勢力に阻まれ、崇拝したフリードリヒ2世からは、第一歩より先に第二歩を踏み出す、と揶揄された。1777年にはフランスを訪れ、妹夫婦の仲を取り持ち、その翌年にマリー・アントワネットは初めて子を産んだ。1790年2月20日、フランス革命が激化するなかで没し、弟のレオポルト2世が継いだ。自ら選んだ墓碑銘は、「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という皮肉のこもったものである。その改革理念はヨーゼフ主義として、のちのオーストリアの改革運動に影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャ (1790年没)
- ジャハーン・シャー (1790年没)
- Samuel Heinicke (1790年)
- ヤーコブ・クリスティアン・シェーファー (1790年没)
- ヤン・クシチテル・クルンプホルツ (1790年没)
同じ地域に関係する人物
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- フランツ2世 (神聖ローマ皇帝) (1835年没)
- ベン・クロス (2020年没)
- ロベルト・ブルーム (1848年没)
- フリッツ・ヴォトルバ (1975年没)