伝記
マウリキウスは、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第5代にして最後の皇帝である。539年、カッパドキアのアラビッソスで、後に元老院議員となるパウルスの長男として生まれた。多くの資料はカッパドキア出身のギリシア人とするが、エウァグリオスはローマ系だったと述べている。弟にペトルス、妹にテオクティスタとゴルディアがおり、ゴルディアは後に将軍ピリッピコスの妻となった。コンスタンティノープルに出て書記官として近衛隊長の秘書を務め、のちのティベリウス2世となる副帝ティベリウス・コンスタンティヌスの有力な支持者となる。ティベリウスの後継者として近衛隊長に任じられ、577年には東方軍司令官として前線へ送られ、貴族(パトリキウス)の位も与えられた。
578年にはティグリス川の両岸を襲い、アフモンの要塞を奪ってシンガラを略奪した。579年にはホスロー1世が和平を求めたが、交渉の前に世を去り、後継者ホルミズド4世が交渉を打ち切った。そこで580年に新たな攻勢に出て、ティグリス川のはるか先まで進み、翌年にはガッサーン朝の支援を受けてペルシア領アルメニアに侵入し、クテシフォンに迫った。しかしペルシア軍がユーフラテス川の橋を落として反撃に出たため、退却を余儀なくされた。582年6月にはコンスタンティア近くで決定的な勝利を収め、ササン朝の進撃を止めた。この遠征の途中、病床の皇帝ティベリウス2世に首都へ呼び戻される。皇帝には男児がなく、娘コンスタンティナの夫であったマウリキウスが8月5日に副帝に指名され、13日に正帝として戴冠した。ユスティニアヌス家との血縁はない。
在位は582年から602年までの20年に及んだ。東方では、亡命してきたホスロー2世に娘のマルヤムを嫁がせて復位を助け、和睦を結んだ。これにより、南カフカスに国境が大きく広がり、ローマは二世紀近くぶりに、平和のために毎年巨額の金をペルシアへ払わずにすむようになった。バルカンではアヴァール人を押し戻して599年にドナウ川の北へ退かせ、川の北岸へも遠征した。ローマ皇帝がこれを行うのは二世紀以上ぶりだった。西方では、ランゴバルド族に備えて584年にラヴェンナ総督府を、591年にはカルタゴを中心とするアフリカ総督府を置いた。西ゴート王国の内乱にも介入し、王子ヘルメネギルドの妻子を預かったが、王レオヴィギルドから3万ソリドゥスで買収されて王子を見捨てたと伝えられる。軍事教本『ストラテギコン』も、しばしばこの皇帝の作とされ、中世の軍事の伝統に影響を与えた。
しかし戦争続きで国庫は傷んでいた。皇帝は経費を減らすために軍へ必要な物資を現地で調達させ、不評を買った。さらにスラヴ人やアヴァール人に備えて、ドナウ川の北岸での越冬を軍に命じたことが決定的な引き金となる。不満をためていた軍は百人隊長フォカスを担いで反乱を起こした。602年、マウリキウスは廃位され、11月27日に殺害された。息子たちも殺され、王朝の世襲はこの死で断たれる。後にフォカスは、修道院に幽閉されていたコンスタンティナと三人の娘も処刑している。
娘婿のホスロー2世は舅の仇討ちを大義名分に出兵し、東ローマ・ササン朝戦争が始まった。この時代は、史家テオフュラクトス・シモカッテスの記録などによって比較的よく知られている。フォカスは8年間帝位にあったが、610年にカルタゴ総督の子ヘラクレイオスに処刑されて、ヘラクレイオス王朝が成立した。
同じ年に亡くなった人物
- ペトルス・オーガスタス (602年没)
- テオドシウス (マウリキウスの息子) (602年)
- バヤン1世 (602年)
- コメンティオルス (602年)
同じ地域に関係する人物
- Muhsin Yazicioglu (2009年没)
- フィラレトス・ブラカミオス (1092年没)
- Sittisah Mukrime Hatun (1467年没)
- メフメド・サイド・パシャ (1761年没)
- Ibrahim Kaypakkaya (1973年没)