伝記
ミラボー伯オノレ・ガブリエル・ド・リケティは、フランス革命初期の中心的指導者で、単にミラボーと呼ばれ、「政略のミラボー」の異名をとった。1749年3月9日に、パリ南方のル・ビニョン(現在のロワレ県)で、経済学者のミラボー侯ヴィクトルと妻マリー=ジュヌヴィエーヴ・ド・ヴァッサンの次男として生まれ、存命の子では長男にあたる。夫妻の5番目の子である。リケティ家はマルセイユの商取引で富を築いた家で、祖父は軍人として数々の戦役を戦い、カッサーノの戦いで負った首の傷のため生涯銀の襟飾りをつけた。3歳のとき天然痘の重い発作と治療の誤りで顔に黒い斑点が残り、母方の祖先に似ていたことと母を慕っていたことも重なって、父に嫌われた。5歳でパリの厳格な寄宿学校に偽名で入れられ、軍人に進む予定で、18歳で軍の学校に入った。エクス=アン=プロヴァンスの大学では法学を学び、のちの民法典の編纂者ポルタリスの影響を受けた。
若い頃は放蕩と借金で名高かった。上官の愛人の心を射止めて醜聞となり、父は国王の封印状を得て、彼をレ島に幽閉した。釈放後はコルシカ遠征に志願兵として加わり、軍人としての才を示し、島の調査もしたが、賭博の借金も重ねた。1772年に裕福な相続人エミリー・ド・マリニャーヌと結婚したが、期待した持参金は得られなかった。父は債権者から守るという名目で、ヴァンセンヌ城に数回、最終的には1775年にフランシュ=コンテのジュー城に彼を閉じ込めた。書簡で知られるマリー・テレーズ・ド・モニエ、すなわち「ソフィー」との恋でも知られる。
革命前から学識と放蕩者としての評判で庶民にも有名だった。1789年の全国三部会では、貴族として第二身分の議員の資格があったが、演説の才が抜きんでていたため、エクス=アン=プロヴァンスの第三身分議員にも選ばれ、第三身分の議席を選んだ。6月23日の会議では、代議員を国民の代表とみなす発言をし、三つの身分の会合は彼の提案によるもので、国民議会の中心人物となり、ジャコバン・クラブの有力会員でもあった。選挙民に会議の報告書を送り、ヴェルサイユでの出来事をフランス全土に知らせた。イギリス型の立憲君主制を主張したが、ラ=ファイエット侯や三頭派らの妨害で、念願の大臣就任はいつも阻まれた。
雄弁で開放的な庶民性から国民に絶大な人気があったが、絶頂期の1791年4月2日、42歳で病死した。それは突然の死であった。この死のあとの経緯も含め、評価は大きく揺れた。心膜炎によるとされ、翌日の解剖では毒物は見つからなかった。2日後に大規模な葬儀が営まれて、聖ジュヌヴィエーヴ寺院、のちのパンテオンに国民的英雄、革命の父と見なされ、最初にこの寺院に葬られた人物となった。しかし、ルイ16世の裁判でひそかに王から金を得ていたことが分かり、名声は地に落ちた。遺骸は2年後にパンテオンから運び出され、サン・テチエンヌ区の共同墓地に改葬された。歴史家の評価は、国をあと一歩で恐怖政治から救いかけた指導者、金で動く扇動家、敵に買収された裏切り者と分かれている。彼の死で王室は国民議会との太いパイプを失い、ヴァレンヌ事件へと進んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・クリスティアン・エーダー (1791年没)
- ジョン・ウェスレー (1791年没)
- リチャード・プライス (1791年)
- フランシス・ホプキンソン (1791年没)
- ヨハン・アンドレアス・マレー (1791年没)
同じ地域に関係する人物
- アンヌ・ド・ブルゴーニュ (1404-1432) (1432年没)
- ピエール・オージェ (1993年没)
- ヴィクトール・ノワール (1870年没)
- アンリ・ルニョー (1871年没)
- エドゥアール・ド・ラブライエ (1883年没)