伝記
第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートは、1713年5月25日に生まれ、1792年3月10日に没したイギリスの政治家で貴族である。スコットランド貴族の家に生まれ、ジョージ3世が皇太子の頃に家庭教師を務めた。1760年のジョージ3世の即位後、国王の後押しで政界で急速に昇進し、1762年5月に首相に就任した。
エディンバラで、第2代ビュート伯爵ジェイムズ・スチュアートと、初代アーガイル公爵アーチボルド・キャンベルの娘アンの間に生まれた。1720年からイートン・カレッジで学び、1723年に父が没すると、ビュート伯爵以下3つの爵位と準男爵位を継承した。爵位はいずれもスコットランド貴族のものであり、自動的にイギリスの貴族院に議席を得ることはなかったが、1737年から1741年にはスコットランド貴族代表議員に選ばれた。1741年の総選挙で再選に失敗するとビュート島に引退して、一時は農業や植物学に専念した。1745年にジャコバイト蜂起が起こるとロンドンに移り、翌年、皇太子フレデリック・ルイスと知り合った。ジョージ2世の外交を「ハノーファー偏重」と批判していたため、国王からは嫌われたが、1747年から皇太子の食客となった。
1751年に皇太子が没した後も、皇太子妃オーガスタの信任を受け、長男で新たに皇太子となったジョージ(後のジョージ3世)の家庭教師に任じられた。教育の際にはボリングブルックの『愛国王』を教材に使ったといわれ、これがのちにジョージ3世が「愛国王」の思想に凝り固まる原因になったとされる。ジョージ3世は、祖父王が悪しきホイッグ政治家に囚われていると信じ、即位したら腐敗した政党政治家を排除して「愛国王」として国をまとめようと考えた。1760年10月に即位した国王は、七年戦争の最中だったので、すぐに政権を入れ替えるのは躊躇し、ビュート伯を宮内官として重用して、事実上の首相とした。1761年3月には北部担当国務大臣として入閣したが、スコットランド貴族の彼は上下両院に議席を持たなかったため、議員を大臣にする長年の慣行が破られた形になり、批判を浴びた。閣内では大ピットが主戦論を唱え、ビュート伯は国王とともに早期講和を主張して、対立が激しくなった。大ピットは1761年10月に辞職し、1762年1月にイギリスはスペインに宣戦布告した。ニューカッスル公は1762年5月末に辞職し、ビュート伯が第一大蔵卿(首相)を引き継いだ。
首相として、国王の強い信任を背景に、年末までにニューカッスル系ホイッグの政治家を官職から一掃し、万年野党だったトーリー党の議員を積極的に閣僚に登用して、ウォルポール以来のホイッグ優越の時代を終わらせた。しかしその結果、議会は分裂状態に陥り、以降のイギリスの政界は政権交代が頻発するようになった。彼自身は極度に不人気で、若い国王に非立憲的な考えを吹き込んでいると見られ、スコットランド人でもあったからである。1763年2月にパリ条約で七年戦争を終結させたが、フランスに譲歩しすぎたと批判され、3月のリンゴ酒消費税の導入で不人気はさらに加速した。1763年4月に辞職して、ジョージ・グレンヴィルが後任となった。その後もジョージ3世はしばらく彼に依存し、野党や世論は彼を「秘密の影響力」「闇の首相」と評したが、1766年夏にはビュート伯の影響力は完全に失われた。
1771年にハンプシャーに居を構え、植物学の研究や学者の援助に専念した。ツバキ科のナツツバキ属は彼の姓にちなむ。1792年3月10日にロンドンで死去し、ビュート島に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- Legall de Kermeur (1792年)
- Karl Friedrich Bahrdt (1792年)
- ヨーゼフ・マルティン・クラウス (1792年没)
- レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝) (1792年没)
- 阮恵 (1792年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドリュー・スミス (動物学者) (1872年没)
- サミュエル・アレクサンダー・キニア・ウィルソン (1937年没)
- メアリー・オブ・テック (1953年没)
- アドルファス (ケンブリッジ公) (1850年没)
- ディミトリ・ティオムキン (1979年没)