HISTORICAL PERSON · 1793年没

ルイ16世 (フランス王)

ブルボン朝第5代のフランス国王。在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止されて、翌年に処刑された。

生涯
1793年没
死亡地
フランス共和国(パリ / コンコルド広場)
出生地
フランス共和国(ヴェルサイユ宮殿)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ルイ16世は、ブルボン朝第5代のフランス国王(在位1774年5月10日~1792年8月10日)である。ルイ15世の孫で、王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘マリー・アントワネットであった。在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止され、翌年に処刑された。1791年憲法に宣誓してからは、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」と呼ばれた。

1754年8月23日、王太子ルイ・フェルディナンと、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯の娘マリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男ルイ・オーギュストとして生まれ、ベリー公となった。1760年にヴォギュヨン公爵が家庭教師となり、翌年に兄が結核で亡くなり、1765年には父も亡くなって、王太子となった。無口で自尊心に乏しい子供で、ヴェルサイユでの日々はくつろげないものだった。兄弟と比較されると一番下に置かれ、内気さや鈍重な立ち振る舞いを知性の欠如と誤解され、父から受け継いだ肥満しがちな体質もそれを強めた。

錠前造りや石工仕事のような手仕事を好み、同時代人を困惑させた。一方、人々の期待や先王たちのイメージに合ったのが狩猟であり、青年期には毎日のように出かけた。国王となった後も、戦時下でも大使との面会を取りやめて狩りに行くことがあった。正確な狩猟日誌をつけ、14年にわたり20万近い獲物を記録している。教育は相応の配慮のもとで行われ、英語、ドイツ語、イタリア語を習得した。細部を記憶する能力に優れ、天文学、地理学、歴史に秀で、ギボンの翻訳も試みた。地図が大好きで、フランスの地理に並外れた知識があった。事実や数字も好み、宮殿の召使いや猟犬係の名前と職務、11歳以降に乗ったすべての馬128頭の名前と特徴、日々の家計費の細目まで表に作成した。個人的な日記も、狩猟の記述が中心だった。

毎日ミサにあずかり、支配する権利が神から授けられたものであることを疑わなかった。啓蒙思想を家父長的な温情主義のもとで理解し、国王は人民の安寧に責任を負うと信じる一方、階層的で貴族的な感覚を保っていた。自分の判断力に病的なまでに自信が持てず、助言者たちの意見も対立して、意思決定は苦痛であった。

長年敵対したブルボン家とハプスブルク家の和議のため、マリア・テレジアはまず兄ルイ・ジョゼフと娘の結婚を画策したが、兄が死亡し、次に候補となったのがルイ・オーギュストである。父が反対していたが1765年に亡くなり、1769年6月に婚約文書が送られ、1770年5月16日にヴェルサイユ宮殿で豪華な結婚式が挙行された。王太子妃はフランス語名のマリー・アントワネットと知られることになる。結婚当初から性格の不一致があり、最初の7年間は国王の性器奇形のため性的結合がほぼ不可能で、1777年に王妃の長兄ヨーゼフ2世が訪れて夫妻の相談に応じ、国王は治療を受けた。1778年に長女マリー・テレーズが生まれた。

1774年5月10日にフランス国王となり、1775年にランスで戴冠式を行った。この時の歓迎ぶりは心に残り、1786年のシェルブールへの旅で歓呼する群衆の間を馬車で進んだことも、治世の最も幸運な瞬間の一つと語った。生涯の終わりまで、群衆の国王万歳の叫びが足りないと深く傷ついたという。1775年4月に食糧危機による小麦粉戦争が起こり、ヴェルサイユに押し寄せた8千人の群集に、バルコニーに姿を現して応えた。

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