伝記
リュシー・サンプリス・カミーユ・ブノワ・デムーランは、1760年3月2日にピカルディ地方のギーズで生まれ、1794年4月5日に処刑されたフランス革命期のジャーナリスト、編集者、政治家である。バスティーユ襲撃の際、パレ・ロワイヤルで群衆を扇動したことで知られる。父ジャン・ブノワ・ニコラ・デムーランはギーズの裁判所の総代理官で、母はマリー=マドレーヌ・ゴダールといった。父が友人の尽力で奨学金を得て、14歳でパリのルイ=ル=グラン学院に入った。ロベスピエールやフレロンらと同級だったが、その中でも抜群の成績を収め、古典文学と政治学に秀で、キケロ、タキトゥス、リウィウスに親しんだ。
初めは法律の道を志し、1785年にパリ高等法院の弁護士として認められたが、吃音があり、法曹界にも縁がなかったため、成功しなかった。生活は貧しく、文学的才能を自負して芸術界での成功を狙い、後の妻リュシルの母で、芸術擁護の有力者とみなされたアネット・デュプレシに近づいた。1789年3月には全国三部会の議員に立候補して落選した。5月の三部会の行列は傍観者として見て、『三部会への頌歌』を書き、有力政治家ミラボーの新聞にも一時寄稿して、ジャーナリストとしての評判を高めた。
運命を変えたのは、1789年7月11日の財務長官ネッケルの罷免である。12日の日曜日、この知らせでパリが騒然とするなか、パレ・ロワイヤルにあるカフェ・ド・フォワの前のテーブルに飛び乗り、「武器を取れ」と呼びかける熱烈な演説をした。いつもの吃音をなくして、互いにそれと分かる帽章を付けようと訴え、ネッケルの罷免は愛国者に対するサン・バルテルミの虐殺の鐘だと述べた。パリに大勢の外国兵を含む軍隊が配置されたため、反対派の虐殺が迫っていると信じられていた。群衆は彼とともに武器を取り、暴動はパリ中に広がり、2日後のバスティーユ襲撃に至った。一躍脚光を浴びた彼は、急進的なパンフレット作者として知られるようになった。
その後、ジャコバン・クラブとコルドリエ・クラブに入り、「自由なフランス」や「街灯からパリ市民へ告ぐ」などで旧体制を批判した。1789年11月には新聞「フランスとブラバンの革命」を刊行し、1791年7月まで週刊で発行して、先鋭的な論評で高い人気を得た。1790年12月29日に、以前から交際していたリュシルと結婚し、1792年7月6日には息子オラースも生まれた。1792年、8月10日事件を経て親友ダントンが司法大臣になると、その秘書となり、ジロンド派を攻撃するパンフレットも書いた。共和政と革命の暴力を明確に支持し、ブリッソーらジロンド派の没落と恐怖政治の始まりに、結果的に寄与した。
1793年12月から新聞「ヴュー・コルドリエ」を発刊し、当初はロベスピエールの意向を反映してエベールら過激派を攻撃したが、ダントンとともに恐怖政治の終結と寛容を訴えるようになり、公安委員会や革命裁判所を批判して、反革命の疑惑をかけられた。ロベスピエールは当初、かつての学友をかばい、反省を示すために新聞の焼却を求めたが、デムーランは「燃やすことは答えにはならない」と拒んで、両者は決裂した。1794年4月、ダントンらとともに革命裁判所で死刑の判決を受けた。汚職とは無関係だったが、共犯者とみなされた。牢獄から妻に宛てた手紙には、人間がこれほど残酷で不当になれるとは思わなかった、と記した。4月5日、処刑台へ向かう道中、声を荒げながら絶え間なく観衆に語りかけた。妻リュシルも、夫の死からおよそ1週間後の4月13日に処刑された。
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