伝記
チェーザレ・ベッカリーアは、本名をチェーザレ・ボネサーナ・ベッカリーアといい、1738年3月15日に生まれ、1794年11月28日に亡くなったイタリアの法学者、経済学者、啓蒙思想家である。ミラノの侯爵の家柄に生まれ、パルマのイエズス会の寄宿学校で学んだ。そのころは数学と人間科学が彼の関心を占めていた。イタリア啓蒙の主要な思想家の一人とされ、とりわけ刑法の分野で大きな影響を残して、刑事法学の古典学派を代表する人物と評されている。専制君主の時代にあって刑罰の制度に異議を唱えたが、既存の社会秩序そのものを全面的に否定したわけではなかった。
1762年に「ミラノ国の貨幣の混乱とその治癒策について」という論考をルッカで出版し、著作家として頭角を現した。1764年から1766年には、ピエトロ・ヴェッリらの友人と協力して『カフェ』という定期刊行物を編集、出版した。この雑誌は「イタリア啓蒙の『百科全書』」と評価され、イギリスの読者の注目も引いた。『カフェ』の刊行直後の1764年7月に、『犯罪と刑罰』を出版した。2か月で完成させたものであるという。この中で彼は、拷問と死刑に反対し、教育によって犯罪を防ぐべきだと説いた。ほかに、法の前の平等、公開で迅速な裁判、犯罪に釣り合った刑罰の体系も説いた。ハプスブルク家が改革を進めていた時代で、彼の提案には人道的な意図のほか、刑事制度をより効率的にしようとする意図も含まれていたとされる。犯罪を合理的な計算の結果と見て、法は事前に書かれ公表されていることで人々の決断に影響を与え、犯罪を思いとどまらせるべきだと考えた。
翌年この作品のフランス語訳が出ると、反響はイタリアだけでなく全ヨーロッパに広がり、ヴォルテールは1766年9月に『犯罪と刑罰』の注釈を出版して、作品の成功を助けた。その直後の10月から11月にかけて、フランス啓蒙思想家たちに招かれてパリを訪れた。パリから戻ると、ロシア皇帝エカチェリーナ2世から側近としてロシアに来ないかという申し出があった。彼はこの申し出を受けなかったが、エカチェリーナ2世は、草案に刑罰の種別性と多様性に関する彼の教訓をほとんど逐語的に取り入れた。社会政策の思想ではモンテスキューの流れを受け、ベンサムに影響を与えたと考えられている。
エカチェリーナ2世の申し出を断った直後に、ミラノ公国の君主であるハプスブルク家からミラノ大学の教授のポストが提示され、これを受けた。新設された官房学(実質的には公共経済学)の教授となり、講義ではアダム・スミスやマルサスの経済理論に近い見解を示した。1771年4月にはミラノ経済評議会の評議員に任命され、同年9月に官房機構の経済政策担当の部局に配属された。1790年にはロンバルディアの民法・刑法改正委員会に所属し、行政官として、穀物租税、貨幣改革、度量衡、人口表などについて報告し意見を提出している。哲学的な言語論と文体論『文体の本性に関する研究』(1770年)も有名で、経済学の著書『公共経済学の諸要素』は1806年に刊行された。小説家アレッサンドロ・マンゾーニはその孫である。
同じ年に亡くなった人物
- アントニオ・リナルディ (1794年没)
- エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ (1794年没)
- ロザリー・フィユール (1794年)
- イザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ (1794年)
- フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン (1794年没)
同じ地域に関係する人物
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- ステーファノ・ヴィスコンティ (1327年没)
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- ジャチント・ファッケッティ (2006年没)