伝記
エゼルフリスは、593年頃からバーニシアの王であり、616年頃にアイドル川の戦いで戦死した人物である。隣国デイラをあわせて治めた最初のバーニシア王で、のちのノーサンブリア王国の形成と統一に重要な位置を占める。ブリトン人に対する軍事遠征と、ダルリアダのゲール人に対する勝利で知られ、最も名高い勝利は、ブリトン人の連合軍を破ったチェスターの戦いであるとされる。
エゼルフリスはエゼルリックの子で、バーニシアの始祖イダの孫にあたる。592年か593年頃に先代の王ハッサの後を継ぎ、都はバンバラに置いた。即位には王家内の対立や、ハッサの親族の追放が絡んでいたかもしれないといわれる。『ブリトン人の歴史』の一部の写本に付く系譜は、バーニシアを12年、デイラをさらに12年治めたと述べ、これは592年頃から604年頃までバーニシアのみを治め、その後デイラの王位にも就いたという意味に取れる。先代までの王は不明な点が多く、重要な事柄がわかる最初のバーニシア王は彼である。20世紀の歴史家ステントンは、ノーサンブリアの、ひいてはイングランドの連続した歴史は彼の治世に始まり、彼は歴史的なノーサンブリア王国の真の創設者で、北部アングル人に現れた最初の偉大な指導者として記憶されたと書いた。
ベーダは、エゼルフリスがブリトン人に対して収めた大きな成功を語る。同時に彼が異教徒であったことにも触れ、ノーサンブリアの改宗が始まるのは彼の死の約10年後であったと記す。ベーダは、彼を旧約のサウルになぞらえ、真の宗教を知らなかった点だけが違うとし、ブリトン人から他のどの王よりも多くの土地を奪ったと述べる。ブリトン人を貢納者とするか、住民を追い払ってイングランド人を入植させたというのである。600年頃のカトラエスの戦いでブリトン人の軍を破ったのは彼であったかもしれず、この戦いは初期の詩『ゴドディン』に詠まれている。ブリトン人は彼を「曲者」を意味する名で呼んだ。彼の下で、バーニシアの境界は海岸から内陸へと大きく押し広げられた。
ダルリアダ王アエダーンは、その成功に危機感を抱き、603年に大軍を率いて攻め込んだ。ベーダによれば、エゼルフリスの兵力は劣っていたが、デグサスタンと呼ばれる地で大勝し、アエダーンの軍の大半は殺され、アエダーン自身は逃げた。ブリテンのアイルランド系の王たちは、以後ベーダの時代に至るまでイングランド人と戦わなかったという。ただし、この戦いは彼にとっても高くつき、弟のテオドバルドが、率いた軍のほぼ全員とともに戦死した。侵攻側にハッサの子ヘリングがいたことは、バーニシア王家の内部対立を示すらしい。その後の遠征が他の地域に向けられ、死後に息子たちがダルリアダに避難できたことから、ダルリアダの支配者と折り合ったのかもしれない。
604年頃、エゼルフリスはデイラを手中にしたが、その経緯は不明である。征服だったとすれば、先王エッラの子エドウィンと、その甥ヘレリックが亡命したことや、直前のデイラ王エゼルリックの治世が5年と短いことが理由に挙げられる。一方、D・P・カービーは、これは両国の協力関係の「形式化」だったかもしれないと述べた。エドウィンは各地の王国を渡り歩いたとみられ、マーシアではケアル王の娘と結婚した。最終的に東アングリアに身を寄せ、その存在がエゼルフリスの没落を招いた。同じ604年頃には、エッラの娘アカとの間に、のちのオズワルドが生まれたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- エゼルベルト (ケント王) (616年没)
- アギルルフ (616年)
- サベルト (616年)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・ヴェイン (1720年没)
- ジンド・カウル (1863年没)
- ジョン・ニコルソン (2017年没)
- アグネス・ベーデン=パウエル (1945年没)
- Harry Johnston (1927年没)