HISTORICAL PERSON · 1796年没

ロバート・バーンズ

スコットランドの国民的詩人。スコットランド語での詩作と民謡の収集で知られ、『シャンタのタム』や『我が恋人は紅き薔薇』などを生んだ。

生涯
1796年没
死亡地
イギリス連邦(ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ / ダンフリーズ)
出生地
イギリス連邦(アロウェイ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ダンフリーズ・アンド・ガロウェイ)

伝記

ロバート・バーンズは、スコットランドの国民的詩人である。1759年1月25日、スコットランド南西部エアシャーのアロウェーで、貧しい小作農の家に7人兄弟の長男として生まれた。父ウィリアム・バーンズは独学の敬虔な長老教会信徒で、母はアグネス・ブラウンといった。生まれた家は父が建てたもので、現在はバーンズ・コテージ博物館となっている。1766年、7歳のとき、父は家を売り、アロウェー南東のマウント・オリファント農場の借地に移った。ここで貧しさと苦労の中に育ち、過酷な農作業は彼の体を弱らせた。学校教育は不規則だったが、父は子供たちに読み書き、算数、地理、歴史を教え、『キリスト教信仰の手引き』も書いてやった。若い教師ジョン・マードックからもラテン語、フランス語、数学を学んだ。

15歳のころには農場の主な働き手となり、1774年の収穫期に手伝ってくれたネリー・キルパトリックを思って、最初の詩を作った。父は不運で、農場から農場へ移り住み、暮らしを良くできなかった。1777年にタルボルトン近郊のロッホリー農場に移り、1784年に父が没するまでそこにとどまった。1780年には弟とともにタルボルトン独身者クラブを作った。1781年には、ウィリアム・ウォレスを英雄と仰ぎ、アメリカ独立戦争の精神に共感していた彼は、フリーメイソンに加入し、そこで得た人脈は、のちに詩人として成功する足がかりとなった。亜麻の加工を学ぼうとイルヴァインに移ったが、新年の祝いの最中に作業場が焼け、この試みは終わった。この頃に知り合ったリチャード・ブラウンは、彼に詩人になるよう勧めた。

1783年からスコットランド語のエアシャー方言を使った詩作を行い、1786年に最初の詩集がキルマーノックで出版された。これは今日、キルマーノック版と呼ばれる。成功を受けて、翌1787年にはエディンバラでも詩集が出た。バーンズはしばしば複数の女性と親密な関係を持ち、1788年にかねてから恋人だったジーン・アーマーと結婚したが、彼女との間の5人の子のほかに、9人の私生児がいたとされる。私生児の養育費も含めて家計がかさみ、詩作の収入では足りず、1789年に収税吏の仕事に就いた。この時期に『シャンタのタム』や『我が恋人は紅き薔薇』などの優れた作品が生まれた。自ら収集して改作したスコットランド民謡も、『ミュージカル・ミュージアム』などで発表した。

大きな名声を得た一方で、リウマチ熱に苦しみ、1796年7月21日に心疾患のため37歳で没した。大半の作品は英語で書かれ、その一部にスコットランド語を含めた形式のため、スコットランド語を話さない読者層も獲得した。作品には、弱い立場の者への愛情と、社会の不正義への風刺が含まれる。「農民詩人」「エアシャーの大詩人」とも呼ばれ、イギリスのロマン主義運動の先駆者とされる。

彼が収集して改作した民謡は世界各地で親しまれ、日本でも『オールド・ラング・サイン』は『蛍の光』として知られる。この歌は、スコットランドの大晦日のホグマネーで人々全員が歌う。『スコッツ・ワー・ハエ』は、長くスコットランド国歌に準ずる歌として扱われ、1999年7月1日のスコットランド議会の開会では『人間は人間』が歌われた。誕生日の1月25日ごろには、各地でバーンズ・ナイトが開かれ、ハギスに捧げる詩を朗読してナイフを入れる儀式を行う。現在は、クライズデール銀行のポンド紙幣に肖像が使われている。

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