伝記
アーガー・モハンマド・シャーは、イランのガージャール朝の初代シャー(在位1779年から1797年)である。即位前はアーガー・モハンマド・ハーンと呼ばれた。1742年にゴルガーンの近くで、ガージャール族のコユンル家の長男として生まれたとされる。生年を1734年ごろとする説もある。父は族長のムハンマド・ハサンで、祖父はタフマースブ2世の命で処刑されたという有力な貴族であった。ガージャール族は11世紀にイランに進出したトルコ系の部族で、サファヴィー朝の支配下で過ごし、王朝の崩壊後はナーディル・シャーに従っていた。
1747年にナーディル・シャーが部下の反乱で暗殺されると、ムハンマド・ハサンはカスピ海南岸一帯に独立勢力を築いた。ナーディル・シャーの跡を継いだアーディル・シャーがガージャール族の勢力拡大を憂いて鎮圧に乗り出し、このときアーガー・モハンマドは捕らえられ、アーディルの命令で去勢された。殺す計画もあったが、のちに生かして去勢するだけにとどめたとされる。年齢は数えで14歳とも6歳ともいう。「アーガー」は去勢された宮廷人に用いられる称号で、政敵になることを防ぐ目的だったが、この障害は彼の経歴の妨げにならなかった。
アフシャール朝が衰えると、ザンド朝のカリーム・ハーンとムハンマド・ハサンが覇権をめぐって激突した。ムハンマドは1757年のシーラーズの戦いで敗れ、勢力は急速に衰え、1759年に殺された。このとき、アーガー・モハンマドはカリームに捕らえられ、人質としてシーラーズの宮廷に連れてこられた。カリームに寵愛されて厚遇を受け、学問にも励んだといわれる。人質としての生活は長く続いた。
1779年にカリームが没すると、ザンド朝で後継者争いが起こった。アーガー・モハンマドはこうなることを察知していたのか、翌日にはシーラーズから逃亡した。そしてガージャール族をまとめ上げ、イランの覇権争いに加わった。1785年までには父の時代の領域であるカスピ海南岸からエルブルズ山脈にかけて勢力を確立し、2年後にはイスファハーンとテヘランを奪い、テヘランを都とした。1794年にファールスとケルマーンを制圧し、ルトフ・アリー・ハーンを捕らえて処刑して、ザンド朝を滅ぼした。
その後は北西部に進出し、ロシア帝国の南下政策の脅威を排除するため、1795年にはロシアと関係の深いグルジアを攻めた。マシュハドでは、アフシャール朝のシャー・ルフ(ナーディル・シャーの孫)を捕らえて殺し、同朝をも滅ぼした。イランのほぼ全土を制圧したことを背景に、ムガン平原で戴冠式を行ってガージャール朝を創始した。残虐な一面があり、自らを去勢したアフシャール朝と、父を殺したザンド朝の最後の君主を、拷問にかけた後に処刑した。チフリスやケルマーンでは、市民を虐殺し、大量に奴隷にしたという。
1797年、ロシアの南下を抑えるためコーカサスに遠征した。このとき、二人の召使が居室で喧嘩をしているのを見て激怒し、処刑を命じたが、部下の取り成しで許し、そのまま身の回りの世話まで任せた。だが、召使は気が変わることを恐れ、6月17日、寝ていたところを刺殺した。没年齢は64歳とも56歳ともいう。去勢されていたために実子がなく、弟の息子ファトフ・アリー・シャーが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- モッラ・パナフ・ヴァギフ (1797年)
- オリヴァー・ウォルコット (独立宣言署名者) (1797年没)
- ウィリアム・ホッジス (1797年没)
- メアリ・ウルストンクラフト (1797年没)
- アンドレアス・ペーター・フォン・ベルンシュトルフ (1797年没)
同じ地域に関係する人物
- ガスム・ベイ・ザキル (1857年没)