HISTORICAL PERSON · 1798年没

ジャコモ・カサノヴァ

ヴェネツィア出身の術策家・作家。自伝『我が生涯の物語』を著し、その女性遍歴によって広く知られる。

生涯
1798年没
死亡地
チェコ共和国(ウースチー州 / ドゥフツォフ)
出生地
イタリア共和国(ヴェネツィア)
出典
世界地図
チェコ共和国(ウースチー州)

伝記

ジャコモ・カサノヴァは、1725年4月2日にヴェネツィアで生まれ、1798年6月4日に没した冒険家で作家である。女性遍歴によって広く知られ、自伝『我が生涯の物語』(『カザノヴァ回想録』)によれば、その生涯に1,000人の女性とベッドを共にしたという。

母は女優ザネッタ・ファルッシ、その夫は俳優ガエタノ・ジュゼッペ・カサノヴァで、ジャコモはその姓を名乗った。しかし実の父は、この夫婦が所属していたサン・サムエーレ劇場の所有者である貴族ミケーレ・グリマーニと考えられている。母が産み成人した5人の子のうち最年長だったが、両親は子供にほとんど関心を持たなかった。法律上の父は1732年に没する前に、グリマーニ家に家族の養育義務があると訴えており、おかげでジャコモはパドヴァの寄宿学校で教育を受けられた。学生として素晴らしい才を発揮して教師に愛され、パドヴァ大学で倫理哲学、化学、数学、法学を学び、16歳で法学博士号を得た。薬学にも深い関心を示し、アマチュアの薬剤師としては優秀であった。

1740年にヴェネツィアへ帰り、聖職者として法律実務を行ったが、洒落者の評判を得た。76歳の老評議員マリピエロに取り入って、社交界の作法を教わり、女性遍歴を繰り返して教会の仕事は短期間で終わった。下級士官職を金で得てコルフ、コンスタンティノポリスに赴いたが、軍務を退屈に思い退役し、実父グリマーニの劇場でヴァイオリニストとなった。21歳のとき、貴族ブラガディン家の一員の命を救い、その貴族は終生のパトロンとなった。少女を暴行した嫌疑(後に無罪)を掛けられた彼は、1748年、23歳でヴェネツィアを発ち、パリ、ドレスデン、プラハ、ウィーンを放浪した。

1753年に帰郷したが、2年後の1755年に魔法・妖術への関心があだとなり、宗教裁判所で有罪を宣告されて、総督宮殿に隣接する「鉛の監獄」に収監された。公文書館の記録によれば、実際は娘との交際に怒った有力貴族が、彼のフリーメーソンとの関係を告発したためだった。5年後、この最も警戒厳重な監獄から脱獄に成功し、パリへ逃れた。以後その顛末は『脱獄物語』に詳しい。1760年頃から「サインガルトの騎士」を名乗り、時には母の旧姓から「ファルッシ伯爵」とも称した。多くの大都市でスキャンダルのために追放され、1766年にはワルシャワでポーランド人伯爵ブラニツキと女優をめぐる争いからピストルで決闘し、左手に深い傷を負って国外退去となったが、医師が勧める切断を拒み自然に治したという。

1785年に隠棲し、ボヘミアのデュックス(現ドゥフツォフ)で、ヴァルトシュタイン伯爵の司書となり、自伝を著して73歳で亡くなった。晩年は退屈で苦痛に満ち、居城の使用人にも嫌われていたらしい。生涯のほとんどは単一の生業を持たず、機知や幸運、社交上の魅力と、人々が提供する金銭で暮らし、パリで国営の宝くじを創始してひと財産を成したが、絹織物工場への投資で全てを失った。ヴォルテール、フランクリン、エカチェリーナ2世らと知遇を得、後年、公文書館の記録から、脱獄後もヴェネツィア政府に各地の機密を流していたことが分かった。死の床で自伝の草稿を甥に託し、翻案版は1826年に刊行されたが、決定版の出版は1960年まで待たねばならなかった。

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