伝記
ピウス6世は、1717年12月25日に生まれ、1799年8月29日に没したローマ教皇である。在位は1775年2月15日から没年まで。本名はジョヴァンニ・アンジェロ・ブラスキという。在位は24年6か月と長かったが、フランス革命と、それに続くフランス軍の教皇領占領によってローマを追われ、亡命の地で失意のうちに世を去った。旧体制の時代を生きた最後の教皇とも言われる。
チェゼーナの貴族の家に、8人兄弟の長男として生まれた。12月27日に洗礼を受けた。イエズス会のローマ学院で学び、1735年に法学の学位を得て、フェラーラ大学で民法と教会法の博士号を取った。1755年に司祭に叙階され、ルッフォ枢機卿の庇護のもとローマへ出て、その秘書となった。ナポリ王国の宮廷との折衝で活躍したことが教皇ベネディクトゥス14世の目に止まり、その秘書となり、サン・ピエトロ大聖堂の参事会員にも任命された。クレメンス13世、クレメンス14世と3代の教皇に仕えて順調に栄進し、1766年には教皇庁の財務官となって教皇領の収入を管理した。1773年4月26日に枢機卿に任命された。イエズス会の将来をめぐってはクレメンス14世と意見が合わず、擁護する立場だったとされる。
クレメンス14世の死去に伴うコンクラーヴェは、1774年10月5日から翌年2月15日まで続いた。ヨーロッパ諸国の思惑に左右されて難航したが、スペインとフランスが異議を取り下げたことで、イエズス会の処遇でも穏健派とみられたブラスキが選ばれた。ヨーロッパ諸国が王権のもとで国をまとめようとするなか、教皇への忠誠を誓うイエズス会は目障りな存在で、弾圧の対象となっていた。新教皇は当初から難問が山積みで、諸王家と反イエズス会派はさらなる処分を期待し、親イエズス会派は解散処分の緩和を期待していた。ピウス6世が中立的な態度を決め込んだため、両派からの信頼を失った。イエズス会員の一部はロシアへ逃れ、密かに会を存続させた。教皇は就任後、財政の立て直しを図り、枢機卿の委員会を設け、不正な手段で職を得た者の罷免を宣言し、不要な年金を廃止して約40万スクーディを節約した。
さらに、皇帝ヨーゼフ2世がカウニッツとともに自国の教会統治の原則とした、教皇権は地域の司教の権限に及ばないとするフェブロニウス主義が興隆して、教皇を圧迫した。それが皇帝の弟レオポルト大公の治めるトスカーナにも広がると、1786年のピストイアの司教会議で、司教スキピオ・デル・リッチを事態の元凶として弾劾した。
最大の事件は1789年のフランス革命であった。人民政府は反教会を旗印にして教会財産を国庫に没収し、パレ・ロワイヤルでピウス6世の肖像画を焼いた。1791年にはアヴィニョンが没収された。1793年1月にローマで共和国政府の使節バスヴィユが殺害されると、国民議会は教皇が黒幕であると断罪した。のちに1797年12月28日、ローマで起きた暴動でフランス軍司令官が殺害されると、フランス軍が教皇領に侵攻して占領し、ローマ共和国の成立を宣言して教皇の退位を迫った。拒否したため、教皇は事実上の捕虜としてイタリアからフランス各地を転々とさせられ、1799年8月29日にヴァランスで世を去った。教皇自身はレオ10世のように芸術と公共事業の庇護者たることを志したといわれ、バチカン美術館は彼の発案によるものである。死後のコンクラーヴェでは、友人のキアラモンティが翌1800年3月14日にピウス7世に選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ワシントン (1799年没)
- ジェイムズ・アイアデル (1799年没)
- エティエンヌ・ルイ・ブーレー (1799年没)
- フランチェスコ・マリオ・パガーノ (1799年)
- ティプー・スルターン (1799年没)
同じ地域に関係する人物
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- マルタ・ロバン (1981年没)
- フランソワ・ダルランド (1809年没)
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