伝記
ボーマルシェは、本名をピエール=オーギュスタン・カロンといい、1732年1月24日に生まれ、1799年5月18日に没した18世紀フランスの実業家であり、劇作家である。『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』『罪ある母』からなるフィガロ三部作で名高いが、劇作を専門としていたわけではなく、時計師、音楽師、宮廷人、官吏、実業家、劇作家と様々な経歴を持つ。フランス文学者の進藤誠一は、彼ほど多種多様の仕事をし、転変極まりない生涯を送った作家も珍しいと評した。
パリのサン=ドニ街で、時計職人アンドレ=シャルル・カロンとマリー=ルイーズの間に生まれた。10人兄妹の7番目で、うち4人は夭折し、無事に育った男児は彼のみであった。父は先祖代々プロテスタントだったが、結婚前年の1697年にカトリックに改宗していた。平民に過ぎなかったが、文学を愛好し、当時の平民としてはかなり正確なフランス語を使った。5人の姉妹に囲まれて育ち、とくに妹たちとは芸術の趣味が合って、ともに音楽を奏でた。ここで培われた音楽的素養が、のちに社会的地位を高めるのに大きな役割を果たした。13歳で時計職人の父の跡を継ぐために工房に入ったが、信心の篤い父のもとでの修業は息苦しかった。18歳の頃には放蕩の限りを尽くしたあげく、工房の時計を無断で持ち出して売り、父に勘当された。母のとりなしなどで数か月後に赦されたが、厳しい条件をのまされ、以後は真面目に修業した。
1753年、21歳で時計の速度調節装置の開発に成功した。同年7月、父の友人の王室御用時計職人ルポートにこれを見せたところ、ルポートは自分の発明と偽ってメルキュール誌に発表した。ピエールは科学アカデミーに装置の下絵を提出して裁定を求め、同誌にも抗議文を送って載せさせた。1754年2月23日、アカデミーは彼の主張を全面的に支持し、ルポートは模倣者に過ぎないと認めた。これで世に知られるようになり、ルイ15世に謁見を許され、貴人から多くの注文を受け、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となった。ポンパドゥール夫人のために作った指輪時計は直径1センチにも満たず、枠を回すと時計として働く仕掛けで、宮中を唸らせたという。
ヴェルサイユに出入りするなかで、人妻のフランケ夫人と出会った。夫のフランケは王室大膳部吟味官で、50歳を超えて衰えていたため、1755年11月に、その役職をカロンに売り渡した。こうして彼は佩刀を許された役人となった。1756年1月3日にフランケが脳卒中で亡くなると、同年11月22日にその未亡人と結婚した。妻の所有地ボーマルシェの名を借りて貴族風の名を名乗りはじめたが、これは自称にすぎない。結婚から1年も経たない1757年9月29日に妻は腸チフスで亡くなり、結婚契約書の登録を怠っていたため、遺産は妻の実家に渡り、借金だけが残った。翌年に母も失い、窮乏のなかで文学と音楽に打ち込み、ハープに改良ペダルを付けるなどして宮廷で評判をとった。ルイ15世の4人の王女の音楽教師となって信頼を得て、これが大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会いにつながり、財政状況は一気に改善した。
同じ年に亡くなった人物
- クロード=ベニーニュ・バルバトル (1799年没)
- ピエール・シャルル・ルモニエ (1799年没)
- エッタ・パルム・デルデール (1799年没)
- エレオノーラ・フォンセカ・ピメンテル (1799年)
- ウィリアム・ウィザリング (1799年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャン・バチスト/ガスパール・ドビュロー (1846年没)
- マルセル・グリオール (1956年没)
- ジェローム・ラランド (1807年没)
- エドゥアール・マネ (1883年没)