伝記
エルサレムのソフロニオスは、560年に生まれ638年に没した、ダマスカス出身の7世紀のキリスト教神学者・修道士である。634年から638年までエルサレム総主教を務め、地中海世界でキリスト教が退き、イスラームが興る様子を目の当たりにした。正教会では聖人とされ、日本正教会ではイェルサリムの総主教聖ソフロニイと表記される。アラブ系の出自だったともいう。
はじめは弁論術の教師をしていたが、580年ごろにエジプトで修道生活を始め、続いてベツレヘム近郊の聖テオドシオス修道院に入った。年代記作家で修道士のヨアンネス・モスコスとともに、小アジア、エジプト、ローマの修道生活の中心地を巡った。モスコスは宗教生活についての論考を集めた自著をソフロニオスに献呈している。二人は修道士の言行録や文書を集め、ソフロニオスは数々の伝記を残した。619年にモスコスがローマで没すると、その遺体を葬るためにエルサレムへ持ち帰った。
628年、皇帝ヘラクレイオスはササン朝との戦争に勝ち、シリアとエジプトの諸州を回復して、630年春にはエルサレムに入り「真の十字架」を取り戻した。皇帝は戦役中から、カルケドン公会議以後の単性説の問題を解決しようとしていた。コンスタンティノポリス総主教セルギオス1世は、キリストの本性は二つだがエネルゲイア(行動様式)は一つだという折衷案を示し、皇帝の後押しもあって、アルメニア、シリア、エジプトで支持された。ローマ教皇ホノリウス1世やアレクサンドリア総主教キュロスもこれを支持した。当時アレクサンドリアにいたソフロニオスは強く反発し、反対の声はシリアやエジプトでも次第に強まった。さらにセルギオスの求めに応じたホノリウスが、返書で「意志」を意味する語を用い、キリストは二つの本性と一つの意志を持つと述べると、ソフロニオスはこの単意論も承服せず、排斥を訴えてアレクサンドリアとコンスタンティノポリスを訪れ、総主教たちの説得を試みた。631年にエルサレム総主教ザカリアスが没し、後継のデモストスも634年に死ぬと、ソフロニオスが総主教に任じられた。彼は管轄下の主教たちを集めて会議を開き、単意論に反対する決議を取り付け、635年にはセルギオス、皇帝ヘラクレイオス、アルメニア大主教ピュロスを非難した。この問題に関する彼の著作は、現在すべて失われている。
在任中にパレスチナはイスラーム勢力の支配下に入った。634年からシリア遠征が始まり、636年のヤルムークの戦いなどの勝利でシリアの征服が固まった。635年9月にはダマスカスが降伏し、637年にはエルサレムに迫った。638年の説教でソフロニオスは、新しい教えへの敵意と侮蔑を交えながら、ベツレヘムがムスリムの手に落ちたと警告している。包囲されたエルサレムは、ジズヤとハラージュを払う代わりに安全を保障される和平を求め、その締結にカリフ・ウマル自身の来訪を要求したという。ウマルは応じてジャービヤに滞在したのち、エルサレムに入った。テオファネスの年代記によれば、粗末な衣をまとったウマルの姿を見たソフロニオスは、預言者ダニエルが語った荒廃の忌まわしさとはこのことだと述べたという。ウマルは条件を認めて文書を与え、エルサレムはイスラーム政権の支配下に入った。聖墳墓教会での会談で、ソフロニオスはウマルにともに祈るよう誘ったが、ウマルは先例を残すことを好まず断った。
著作には『エジプトの聖マリア伝』があり、正教会の晩課で用いられる祈祷文「穏やかなる常生の光」も彼に帰せられ、「聖ソフロニイの祝文」とも呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- ホノリウス1世 (ローマ教皇) (638年没)
- Utba ibn Ghazwan (638年)
- Muadh ibn Jabal (638年)
- セルギウス1世 (638年)
同じ地域に関係する人物
- ナオミ・ファインブルン=ドーサン (1995年没)
- Derek Prince (2003年没)
- ウリ・ルポリアンスキー (2026年没)
- ヨッセル・ローゼンブラット (1933年没)
- エルサレムのペラギア (457年没)