HISTORICAL PERSON · 1804年没

ジャック・ネッケル

ジュネーヴ生まれの銀行家で、ルイ16世の財務長官。三部会の開催を求めたが解任され、その解任がバスティーユ襲撃の一因となった。

生涯
1804年没
死亡地
スイス連邦(ジュネーヴ州 / ジュネーヴ)
出生地
スイス連邦(ジュネーヴ)
出典
世界地図
スイス連邦(ジュネーヴ州)

伝記

ジャック・ネッケルは、1732年9月30日にジュネーヴで生まれ、1804年4月9日にスイスのコペで亡くなった、フランス革命前夜に活動した銀行家で政治家である。父シャルル・フレデリックはプロイセン王国領キュストリンの出身で、ジュネーヴで公法の教授を務め、母はジャンヌ・ゴーティエという。ジャックは次男であった。18歳で銀行に入り、ジュネーヴからパリに出て、1756年にはテリュソン・ヴェルネ・ネッケル銀行の三人の共同経営者の一人となった。銀行家として大成功を収め、短期間に莫大な財産を築き、フランス東インド会社の理事としてもその再建に力を尽くした。何度か国庫に多額を用立てたことで、ショワズールらの注意を引いた。

1764年、牧師の娘シュザンヌ・キュルショーと結婚し、妻は彼に大きな影響を与えた。1768年にジュネーヴ共和国の在パリ公使となり、政治に専念しようと考えて、1772年に銀行業から退き、事業を弟に譲った。1773年に『コルベール讃』を発表してアカデミー・フランセーズに顕彰され、1775年には『立法と穀物取引についての試論』で、当時の財務総監テュルゴーの穀物取引自由化政策を批判した。この本は、テュルゴーの政策が引き起こした小麦粉戦争の騒乱のさなかに出て、成功を収めた。プロテスタントだったため、国王の評議会に入る道は閉ざされていたが、ネッケル夫人のサロンに集まるディドロやダランベールら啓蒙知識人の支持も得て、世論は彼に好意的に動いた。

1776年10月、テュルゴーの後任の死を受けて、44歳で国王ルイ16世に請われ、国庫総裁兼財務の顧問官に就任した。外国人でプロテスタントのため財務総監の肩書きは得られず財務長官と呼ばれたが、実質的な権限は財務総監と同じであった。1781年に『国王への財政報告書』を公表し、絶対王政では秘密とされてきた国家の財政を初めて公にしたが、直後に罷免された。公的な理由はこの公表とされるが、実際は、王妃マリー・アントワネットが寵臣に利益供与する計画を阻止したためともいわれる。1784年には『フランスの財務行政について』を発表した。

後任のカロンヌやブリエンヌが貴族への課税を試みて失敗し辞任すると、1788年に再び登板が求められた。ネッケルは世論を味方につけて財政改革を行おうと考え、三部会の開催を就任の条件とした。三部会は開かれたが、改革は利権を手放さない保守派貴族に阻まれた。三部会の議決方式で第三身分に有利に働きかけたため、革命的とみなされ、1789年7月11日に解任されて出国を命じられた。この知らせは、7月14日のバスティーユ襲撃が起きた要因の一つである。7月16日に再び財務長官に就任したが、ミラボーやラファイエットとの協力を拒んで、民衆の支持を失っていった。1790年9月に辞職し、生まれ故郷のジュネーヴ近郊に引退した。従弟にアルバート・ギャラティン、娘に文人として活躍したスタール夫人がいる。立憲君主制の支持者であり、経済を論じる政治経済学者、道徳家でもあって、法の前の平等という新しい原理を厳しく批判する著作も書いた。穏健を自らの旗印とした。

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