伝記
ジョゼフ・プリーストリーは、1733年3月23日にリーズ近郊のバーストールで生まれ、1804年2月6日に没した18世紀イギリスの自然哲学者であり、教育者、神学者、非国教徒の聖職者、政治哲学者である。150を超える著作を出版した。気体の酸素を単離したことから、一般に酸素の発見者とされるが、シェーレとラヴォアジエも発見者とされることがある。
非国教徒の家の六人兄弟の長子で、父は布地の仕上げを仕事にしていた。母の負担を軽くするため、1歳のころ祖父に預けられ、5年後に母が亡くなると実家に戻された。父は1741年に再婚し、プリーストリーは子のない裕福な叔父夫婦に育てられた。早熟で、小教理問答の107の問答を4歳でそらんじてみせたという。叔母は聖職者に向いていると考えて、最良の教育を探した。1749年ごろ重い病を患い、一時は死を覚悟した。信心深いカルヴァン主義者として育ち、救済には回心の体験が必要だと信じていたが、自分にその体験があったか疑問を持った。この苦しみから、神の選びを拒み、万人救済主義を受け入れるようになったため、一家の教会の正会員になることを断られた。この病気の後遺症で、生涯どもりが残り、聖職者になることを一度は断念した。リスボンで貿易商を営む親戚のもとに身を寄せる予定で、フランス語、イタリア語、ドイツ語など多くの言語を学び、牧師の個人指導で数学、自然哲学、論理学、形而上学を学んだ。しかし神学の道に戻ることを決め、1752年にダヴェントリーの非国教徒向けアカデミーに入り、既に読書量が多かったので2学年を飛び越した。ここで合理的非国教徒となった。ハートリーの心の哲学の書に強い影響を受け、宗教的な事実や道徳的な事実を科学的に証明するという同じ目標を生涯の課題とした。
1755年に最初の任地ニーダムマーケットに赴いたが、異端性が明らかになると会衆は離れ、寄付は急落した。叔母もカルヴァン主義でなくなったと知って援助を断り、学校を開く提案も地元民に退けられ、地理に関する科学講演で糊口をしのいだ。友人たちの尽力で1758年にチェシャーのナントウィッチへ移り、学校を開いて成功した。この学校では生徒に自然哲学を教え、実験器具まで買いそろえた。当時の文法書の質に失望して『英文法の基礎』(1761年)を著し、ラテン語の文法と切り離した独創的な説明により、のちに当時最も偉大な文法家の一人と評された。1761年にウォリントン・アカデミーに招かれ、現代言語と修辞学を教え、1762年6月にメアリー・ウィルキンソンと結婚した。歴史の講義は、将来の実用的な必要を見越した教育を訴えて革命的だった。偉人や国家の存続期間を線で表す「伝記図表」を考案し、18世紀の年表の中で最も影響が大きいとされる。エジンバラ大学は1764年に法学博士号を贈った。
電気の歴史の執筆を決意し、フランクリンらに会って実験を勧められ、自らも実験を考案するようになり、1766年に王立協会のフェローに選ばれた。1767年の『電気学の歴史と現状』は高い評価を得て、電気の力が逆2乗の法則に従うことを最初に提唱したが、それを発展させることはなかった。その後、1774年に酸化第二水銀を熱して得た気体を「脱フロギストン空気」と命名し、ラヴォアジエに伝えた。しかしフロギストン説に固執して化学革命を拒み、科学界で孤立した。フランス革命への支持が疑惑を招き、1791年に国教会に扇動された群衆に家と教会を焼かれてロンドンに逃れ、のちにアメリカへ移住して、晩年の10年をペンシルベニアで過ごした。
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