伝記
ウィリアム・ピットは、18世紀末から19世紀はじめにかけてのイギリスの政治家で、首相(在任1783年から1801年、1804年から1806年)を務めた。父の初代チャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)と区別して、小ピットと呼ばれる。1759年5月28日、ケント州ヘイズに、大ピットとヘスター・グレンヴィルの次男として生まれた。両親ともに政治家の家系で、母はやはり首相を務めたジョージ・グレンヴィルの姉妹であった。伝記作家によれば、父方から才気と行動力を、母方のグレンヴィル家から断固として几帳面な天分を受け継いだといわれる。
子供のころは虚弱で病気にかかりやすく、先天性の痛風があった。そのため家庭で牧師エドワード・ウィルソンについて学び、ラテン語やギリシャ語に通じた。1773年、14歳でケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学した。この記録に並ぶ者は2010年まで237年間現れなかったという。政治哲学、西洋古典学、数学、化学、歴史などを学んだが、在学中の成績は特に目立ったものではなかった。指導教員のプレティマンとは親友となり、のちに彼をリンカーンの主教、ウィンチェスターの主教に任命している。ケンブリッジでは若きウィリアム・ウィルバーフォースとも友人になり、生涯の友として議会でも同盟を結んだ。ウィルバーフォースは、ここまで誰も傷つけずに人を楽しませる人物を見たことがないと、その品のいいユーモアを語っている。
父が亡くなったとき、次男のピットは現場に居合わせ、父を議場から運び出すのを手伝った。相続した遺産はわずかであった。リンカーン法曹院で法律を学び、貴族の子弟の特権で試験なしに卒業した。1780年9月の総選挙に出馬して落選したが、大学時代の仲間である第4代ラトランド公爵の力を借りて、腐敗選挙区の補欠選挙で当選し、1781年1月に庶民院議員となった。処女演説で注目に値する討論者であることを示し、フォックスらホイッグ党員とともにアメリカ独立戦争の継続を非難した。ノース卿に、植民地と和平を結ぶよう提案し、選挙の腐敗を防ぐ改革法案を支持した。1782年にシェルボーン伯が首相となると、入閣して大蔵大臣となった。
フォックスとノースが連立してシェルボーンを失脚させたとき、ジョージ3世が首相への就任を勧めたが、庶民院の支援の保証がなかったため辞退した。野党に立った小ピットは、賄賂や腐敗選挙区を改める改革案を提出した。1783年12月、フォックスが提出した東インド会社改革法案に国王が反対し、貴族院で否決されると、国王は連立政権を解消し、小ピットに首相の職をゆだねた。こうして24歳でイギリス最年少の首相となった。この政権はクリスマスまでしか続かないと予測されたが、結果として17年続いた。1784年1月には不信任決議を突きつけられたが、辞任を拒み、国王や貴族院、世論の支持を得て乗り切り、「正直者ビリー」と呼ばれる人気を得た。
首相としては、税金を上げ、急進派を厳しく取り締まった。アイルランドのフランスへの支援を脅威と感じ、1800年の連合法を根回ししたが、これにカトリック解放を組み込もうとして失敗し、国王と対立した。フランス革命が過激になると、1793年から対仏大同盟を組織した。1801年にいったん辞任し、1804年に再び組閣したが、1805年のアウステルリッツの戦いに敗北し、翌年1月23日に病没した。
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