HISTORICAL PERSON · 1806年没

ジャン・オノレ・フラゴナール

18世紀後半のフランスを代表するロココの画家。1767年頃に絶頂期の作品『ぶらんこ』を描き、ロココ時代の最後を飾った。

生涯
1806年没
死亡地
フランス共和国(パリ / former 2nd arrondissement of Paris)
出生地
フランス共和国(グラース)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジャン・オノレ・フラゴナールは、ロココ期のフランスの画家である。1732年4月5日、南フランスのカンヌに近いグラースで、皮手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれた。父はフランソワ・フラゴナール、母はフランソワーズ・プティで、幼い弟が生後10か月で亡くなったため、一人っ子となった。1738年、6歳のときに家族とともにパリに出た。13歳で公証人のもとで書記として働いたが、その才能に気づいたのは公証人だったという。シャルダンのもとで短期間学び、14歳のころには、ブーシェの工房に弟子入りした。ブーシェのもとでタピスリのデザインなどを手伝ったと考えられ、師やレンブラントの作品を模写して修業を続けた。

20歳のとき、王立絵画彫刻アカデミー主催の「ローマ賞」で1等賞を受賞し、国費でローマ留学をする権利を得た。提出作品《偶像に犠牲を捧げるジェロボアム》には、ブーシェよりもヴァン・ローの「大様式」の影響がみられる。1753年、王立特待生学校に入学し、1756年まで在籍して、歴史画家としての教養を身につけた。1754年から1755年には装飾画家としても経歴を積み、このころの「四季」連作や神話画には、ブーシェの影響が顕著である。1756年にローマに到着し、友人の画家ユベール・ロベールや建築家とともに、フランス・アカデミーに滞在した。ティエポロやピエトロ・ダ・コルトーナの影響を受けたが、巨匠の様式を真似ることに疲れたという。サン=ノンが、このころ庇護者・主要な注文主となり、帰国前にフィレンツェ、ボローニャ、ヴェネツィアなどを巡った。

1761年にパリに戻ると、主にコレクターのために制作した。ルーヴル宮に工房を得て、アポロンのギャラリーの装飾を任された。1765年には、パウサニアスの著作の主題に基づく《カリロエを救うために自らを犠牲にするコレソス》をアカデミー入会承認のために制作して、サロンに出品し、批評家ディドロの絶賛を受けた。しかし、古典的な分野で第一人者になることは難しいと考え、風俗画や艶っぽい場面に転じて、ルイ15世の宮廷で大成功を収め、流行の画家となった。1767年ごろ、絶頂期に描いた《ぶらんこ》は、庭園のぶらんこに乗る若い女と、それを低い位置からのぞき見る愛人の貴族を描いたもので、ひとつ間違えば下世話になる主題を品よく描いている。1769年に、同郷の細密画家マリー=アンヌ・ジェラールと結婚した。

1773年から1774年まで、徴税請負人ベルジェレとともに、イタリアを旅し、帰途は中欧を巡った。この時期に描いた松や杉の巨木が特徴的なイタリア風景の素描が、多数現存している。しかし、ロココの軽薄な画題はディドロら百科全書派の批判を招いた。1789年のフランス革命で体制が変わると、時代の好みも変わり、ロココ美術は下火になった。貴族の注文主が消え、大きな財産も失った。1793年、美術管理委員会の一員に選ばれ、1800年までルーヴル美術館の収蔵品の管理を担当した。

1805年、フラゴナール一家は、ほかの芸術家たちとともにルーヴルの住居から追い出された。友人ヴェリのいるパレ・ロワイヤルに身を寄せ、翌年の1806年8月22日に没した。晩年は失意と貧困のうちにあったという。

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