HISTORICAL PERSON · 1808年没

クリスチャン7世 (デンマーク王)

デンマーク=ノルウェー国王。若くして王位を継いだが、深刻な精神病に悩まされたとされる。

生涯
1808年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 / レンツブルク)
出生地
デンマーク(クリスチャンスボー城)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州)

伝記

クリスチャン7世は、1749年1月29日にコペンハーゲンで生まれ、1808年3月13日に没したデンマーク=ノルウェー国王で、在位は1766年から1808年である。オルデンブルク家の出身で、絶対君主制の時代の6番目のデンマーク君主にあたる。フレゼリク5世と、その最初の妃でイギリス王ジョージ2世の娘ルイーズとの間の息子として、クリスチャンスボー宮殿に生まれた。

誕生に際しては、当時デンマークに滞在していた作曲家グルックが、祝賀の音楽劇を作曲している。母は彼が3歳になる前に、6度目の妊娠中に27歳で死去した。翌年に父は再婚し、継母ユリアナ・マリーエ王太后は自分の子である異母弟フレゼリクを好んで、クリスチャンに関心を示さなかった。父も飲酒や放蕩にふけり、内気で繊細で、癲癇の発作も起こす息子に次第に無関心になった。子供の頃のクリスチャンは愛嬌のある性格を示し、ドイツ語、フランス語、デンマーク語を流暢に話し、記憶力にも優れ、すばらしい踊り手だった。しかし教育係に任じられた貴族デトレフ・レヴェントローは、教育学の知識に乏しく、短気で、鞭を教育に持ち込み、力ずくで知識を詰め込もうとした。この虐待によって、王子は内気になる一方で、他人を信用できない、復讐心の強い性格になったとも考えられる。人を嘲る術と傷つける喜びを最もよく身につけ、大臣らの物まねが最大の楽しみになった。

1766年1月14日、父王の死により王位を継承した。同年、イギリス王太子フレデリック・ルイスの娘で従妹のカロリーネ・マティルデと結婚したが、のちに乱痴気騒ぎなどの不摂生に耽り、王妃を愛せないと公言し、「一人の妻を愛するのは時代遅れだから」と述べたという。高い知性があるように見え、明晰な時期もあったが、おそらく統合失調症のような深刻な精神病に悩まされ、パラノイアや幻覚などの症状があったとされる。やがてヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセを起用すると、その言いなりになり、ストルーエンセは1760年代の終わりから権力を増した。王に無視された孤独な王妃はストルーエンセと関係を持った。夫妻には、のちのフレゼリク6世と王女ルイーセ・アウグスタが生まれたが、後者はストルーエンセの子と信じられている。

1772年にクーデターが起き、王と王妃の結婚は解消された。同年ストルーエンセは逮捕され、斬首の後に遺体は車裂きにされた。この残酷な処刑にヨーロッパ各国は非難の声を上げたが、不義を犯した王妃に同情の声はなかった。王は逮捕状の署名に無関心だったが、継母の王太后が圧力をかけ、離婚も進めたという。クリスチャンは1772年以降は名目だけの王となり、1772年から1784年にかけて、王太后、異母弟フレゼリク王子、政治家によって統治された。1773年にはロシアのエカチェリーナ2世からシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公の地位を返されたが、これも名目上のものだった。1784年以降は息子のフレゼリク6世が摂政王太子として統治し、この摂政時代はナポレオン戦争の始まりまで続き、自由と農業改革で特筆される。それでも国民には意外なほど好かれ、ストルーエンセの逮捕で王が解放されたとき、市民は歓喜の声で迎えたという。

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