伝記
セリム3世は、1761年12月24日に生まれ、1808年7月に没したオスマン帝国の第28代皇帝で、在位は1789年4月7日から1807年5月29日である。第26代皇帝ムスタファ3世の子で、母はジョージア系のミフリシャーとされる。
オスマン家には30年以上も男子が誕生しなかったため、その誕生は盛大に祝われた。誕生日は木星と金星が重なる吉兆に当たるとされ、スレイマン1世らに与えられた称号である「天運の主」になると予言された。5歳の頃から英才教育を受け、父が外国の大使を迎えるときには幼いセリムを伴った。父の没後は叔父のアブデュルハミト1世が即位し、当初は親切に遇されて教育にも力が入れられた。しかし1785年、ロシアがクリミアを併合した責任を問うため、大宰相らがアブデュルハミト1世を廃してセリムを即位させようとする計画が発覚し、監視が厳しくなって窓を閉鎖されるという仕打ちを受けた。暗殺を命じられた女奴隷が送り込まれたが、愛情を抱いて果たせなかったという真偽不明の逸話もある。この頃は音楽と芸術に深い興味を持ち、即位後は積極的に作詞した。1786年頃からフランス王ルイ16世と文通を始めた。アラビア語、ペルシア語、トルコ語を流暢に話したという。
1789年4月に叔父が崩御し、跡を継いだ。衰退した王朝の勢力を盛り返すため、国家体制の刷新に着手し、西洋文明を取り入れる近代化を目指した。しかしロシアとの戦いに敗れ、1792年にヤッシーの講和を結び、クリミアのロシア領有を認め、ジョージアの領土を割譲せざるを得なかった。和平後、臣下や外国の識者に改革の意見書を求めたところ、スレイマン1世の時代への回帰を求める復古的な意見が多い中で、ロシアを模範にした軍事改革などを説く意見もあった。1793年に西洋式の新しい軍隊「ニザーム・ジェディード」を創設した。アナトリアやバルカンの農民で構成され、費用はアーヤーンの協力や羊毛・絹への新税でまかない、毎年イェニチェリから一定人数を引き抜いて参加させたため、1806年には2万人以上の兵団となった。フランスから砲兵・工兵の将軍を招き、海軍技術学校も開き、砲兵工廠や海軍の改革も行った。
1798年のナポレオンのエジプト遠征で、フランスとの関係は悪化した。1799年にフランス軍がアッコに侵攻すると、ニザーム・ジェディードはアーヤーンの協力も得て勝利し、1801年までにエジプトのフランス軍を降伏させた。ロシアとは1805年に対仏防衛同盟を結んだものの、翌年再び開戦した。1806年にバルカンで徴兵に赴いた新軍がアーヤーンの抵抗を受けて失敗すると、セリムの人気は低下し、挽回のため改革を嫌う守旧派を大宰相やイスラム長老にせざるを得なかった。1807年5月、イスタンブールのイェニチェリに新軍の軍服を着る命令を出すと、カバクチュ・ムスタファらの反乱を招き、鎮圧命令を出せないセリムはやむなく新軍を廃止したが、怒りは収まらず、イスラム長老が廃位のファトワーを出して、セリムは廃位され幽閉された。
セリム派は、ブルガリア北部ルーセのアーヤーン、アレムダル・ムスタファ・パシャを頼った。アレムダルはセリムの復位を掲げて挙兵し、1808年7月にイスタンブールに迫ったが、新帝ムスタファ4世は復位により自身の帝位や命が脅かされるのを恐れ、幽閉中のセリムを殺害させた。
同じ年に亡くなった人物
- オーヴェ・ヘー=グルベア (1808年)
- フィリップ・キング (1808年)
- ベネデット・ディ・サヴォイア (1808年没)
- パヴェル・ヴラニツキー (1808年没)
- フョードル・ロコトフ (1808年)
同じ地域に関係する人物
- Sokolluzade Lala Mehmed Pasa (1606年没)
- マヌエル・コムネノス (1185年没)
- ハイラニディル・カディネフェンディ (1898年没)
- エウフェミア (524年没)
- Saliha Sultan (1739年没)