伝記
マルティヌス1世は、第74代ローマ教皇で、在位は649年7月(21日とする資料もある)から653年または654年までである。生年は590年から600年の間とされ、655年9月16日に没した。「証聖者」とも呼ばれ、カトリック教会と正教会で聖人とされ、カトリック教会での記念日は4月13日である。日本のカトリック教会では、聖マルティノ一世や聖マルチノ1世教皇殉教者などとも呼ばれる。また、最後に殉教者として認められた教皇とされる。
ウンブリアのトーディ近郊、現在は彼にちなんでピアン・ディ・サン・マルティーノと呼ばれる地の生まれとされる。伝記作者テオドロスによれば、高貴な生まれで、優れた知性をそなえ、貧しい人々に深い慈善を施したという。641年には修道院長を務めており、教皇ヨハネス4世から、多額の金を託されてダルマチアとイストリアへ派遣された。スクラヴィニ人の侵入で苦しむ住民を救い、捕らわれた人々を身請けするためである。廃墟となった教会を再建できなかったため、ダルマチアの重要な聖人の聖遺物がローマに運ばれ、自身もダルマチア出身のヨハネス4世は、ラテラノ洗礼堂にヴェナンティウス礼拝堂を建てて崇敬させた。
教皇テオドルス1世(在位642年から649年)の初期から、マルティヌスはコンスタンティノポリス駐在の教皇使節を務めた。教皇座の外交をほぼ任される立場にあったことは、彼の卓越ぶりを物語る。ローマは経済、軍事、政治のいずれでもコンスタンティノポリスの後塵を拝していたが、東方も、アラブの拡大やエルサレムの征服、神学論争による対立で動揺していた。テオドルス1世が没すると(649年5月13日)、助祭の身で教皇に選ばれた。通例は皇帝の承認を待って叙階されたが、彼は皇帝コンスタンス2世の同意を求めも待ちもせず、承認のないまま叙階を受けた。この点で、コンスタンティノポリスが教皇庁を支配した時期の教皇として唯一の例外だったとされる。
その前年、皇帝はキリストに人間の意志はなかったとする両性単意論を擁護する勅令(テュポス)を出していた。マルティヌスは就任後まもなく西方の司教たちを招き、649年10月5日から31日まで、五つの会期にわたってラテラノ教会会議を開いた。イタリア、シチリア、サルデーニャを中心に、アフリカなどからも合わせて105人の司教が出席し、二十の決議を出した。会議は両性単意論とその著者たち、皇帝のテュポスと総主教セルギオスのエクテシスを断罪した。神学への皇帝の介入は退けられた形になったが、あらゆる両性単意論の文書を断罪したことは、宮廷の怒りを呼んだ。教皇は決議を回勅として公表し、皇帝は、教皇が固執するなら逮捕してコンスタンティノポリスへ送るよう、イタリアの総督に命じた。皇帝は教皇がイスラーム教徒のカリフ政権と無断で通じたとも非難した。
逮捕の命令は3年以上実行できなかったが、653年6月17日、ラテラノで証聖者マクシモスとともに逮捕された。教皇はナクソス島を経て、9月17日にコンスタンティノポリスに到着し、重病の総主教パウロ2世の懇願で処刑を免れた。裁判の結果、クリミア半島のケルソンへ配流され、その地で没した。この逮捕は、7世紀半ばになっても皇帝の権威と権力が西方に及んでいたことを示す一例である。
同じ年に亡くなった人物
- テオドル・ルシュトゥニ (655年(推定))
- Khawla bint al-Azwar (655年)
- エゼルワルド (655年(推定))
- ペンダ (マーシア王) (655年没)
- ウバーダ・ブン・アル=サーミト (655年没)
同じ地域に関係する人物
- George Cathcart (1854年没)
- フィッツロイ・サマセット (初代ラグラン男爵) (1855年没)
- ヴラジーミル・コルニーロフ (1854年没)
- フィリップ・オクチャーブリスキー (1969年没)
- アレッサンドロ・フェレロ・ラ・マルモラ (1855年没)