伝記
トマス・ペインは、イギリス出身のアメリカ合衆国の哲学者であり、政治活動家、革命思想家である。1737年1月29日にノーフォークのセットフォードで生まれ、1809年6月8日に没した。独立期のアメリカで読まれた小冊子『コモン・センス』や『人間の権利』の著者として知られる。
コルセット製造業者の子として生まれた。父はクエーカー教徒、母は英国国教会の信徒だったという。グラマースクールで歴史、数学、科学を学び、13歳から父の店で職人の修行をした。16歳のころ、船乗りになるため家出をし、のちにコルセット製造や収税吏、教師など職を転々とした。1759年に最初の結婚をしたが、事業は崩壊し、妻は産褥で亡くなったとされる。1762年に収税吏となったが、1765年に、点検していない品を点検したと申告したとして解雇された。のちに復職を認められ、1768年にはサセックスのルイスに任命された。1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを書き、文人ゴールドスミスと知り合った。1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、人物証明書を持たされて、アメリカに移住した。月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となり、1775年1月に600人だった購読者を2か月後には1500人に増やした。クエーカー教徒の完全な平和主義を批判し、植民地の政治問題にも触れて、ペンシルベニア州議会に独立を求めた。
1776年1月10日、フィラデルフィアで、ペインが書いた『コモン・センス』の初版が1部2シリングで販売され、1000部は売り切れた。3か月で12万部、年末までに56版を重ねて、15万部が売れたという。植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱して独立するのは、常識だと説いた。独立宣言の直後にペンシルベニア連隊に入隊し、将軍付の秘書となり、ワシントンに紹介されて2年間その下で働いた。その間に『危機』と呼ばれる一連の小冊子を出し続けた。1777年4月から連邦議会の外務委員会の書記を務め、1779年11月にペンシルベニア州議会の書記に任命された。滞納された賃金を支払われると、そのうち500ドルをワシントン軍に寄付し、これにならう者が続出して、議会が銀行を設立できたという。1780年3月に州議会が可決した奴隷廃止法案の前文も書いた。
1785年に鉄橋を考案し、翌年に模型を完成させた。1787年にフランスへ渡って橋の模型を宣伝し、イギリスの首相ピットに、対仏戦の非を説いた。バスティーユ陥落の後、ラファイエットから牢獄の鍵を託され、ワシントン大統領に届けた。エドマンド・バークの『フランス革命についての省察』に反駁するため、1791年から翌年に『人間の権利』を出版し、イギリスで200万部を売ったと試算される。第2部で世襲君主制への敵意を表明したため、イギリス政府に追放され、フランスの市民権を与えられて、国民公会の新憲法草案作成委員会に加わった。1793年1月にはルイ16世の処刑に反対する演説をした。同年12月に、ジロンド党との共謀と敵性外国人の嫌疑で逮捕されたが、公使モンローの助力で、翌年11月に釈放された。この間に理神論を主張した『理性の時代』を完成させている。
1802年に再びアメリカに渡ったが、連邦党と対立し、奴隷制に反対し、理神論を改めなかったため、ほとんどの友人を失った。不遇のうちにニューヨークで没し、無神論者との噂から、教会での埋葬を拒まれた。1819年にコベットが遺骨を持ち帰ったが、イギリスでも埋葬が許されず、行方が分からなくなったという。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・フォン・ミュラー (1809年)
- ゲオルク・ツェーガ (1809年)
- Dirk van der Aa (1809年)
- Lorenzo Hervas y Panduro (1809年没)
- オーギュスタン・パジュー (1809年没)
同じ地域に関係する人物
- ドリス・ハンフリー (1958年没)
- ロバート・シェクリイ (2005年没)
- マーク・W・クラーク (1984年没)
- マダム・C.J.ウォーカー (1919年没)
- ネッド・ヴィジーニ (2013年没)