HISTORICAL PERSON · 1811年没

ミゲル・イダルゴ

メキシコ独立運動の初期の指導者で、「メキシコ独立の父」と評価される。司祭として貧しい教区民のため陶芸や養蚕を進め、1810年に「ドローレスの叫び」で武装蜂起したが、捕らえられて処刑された。

生涯
1811年没
死亡地
メキシコ合衆国(チワワ州 / チワワ)
出生地
メキシコ合衆国(Corralejo de Hidalgo)
出典
世界地図
メキシコ合衆国(チワワ州)

伝記

ミゲル・イダルゴは、メキシコ独立運動の初期の指導者で、カトリックの司祭である。1753年5月8日に生まれ、1811年7月30日に銃殺された。独立闘争の途上で捕らえられて処刑されたが、のちに「メキシコ独立の父」として評価されている。

グアナフアト州の農場の管理人の長男(次男とする説もある)として生まれ、いわゆるクリオーリョ、つまり植民地生まれの白人であった。同農場で教育を受けたのち、1765年に地域の中心都市バリャドリッド(現モレリア)へ移った。はじめイエズス会経営の聖フランシスコ・ザビエル校、1767年にイエズス会が追放されてからは聖ニコラス校で、神学を中心に学んだ。イエズス会の学校は、ラテン語だけでなくフランス語などのヨーロッパの言語や先住民の言語、客観的な教会史、メキシコの古代の歴史まで教える先進的なものであった。こうした教育は、ヨーロッパの先進的な思想への関心とともに、幼いころ農場で共に暮らした先住民や混血民への愛情を育んだ。フランス語を学んだことで、教会が禁じていた啓蒙思想の書物も読むことができた。

1778年に司祭の資格を得たあとも、母校の聖ニコラス校で教え、1790年には学長となって教育改革に尽力した。しかし1792年に学長職を辞した。理由は明らかでないが、学校財政に赤字をもたらしたこと、改革が保守派の反感を買ったこと、数人の女性と関係をもって子を産ませたこと、賭博好きであることなどが推測されている。その後はいくつかの教区の司祭を歴任し、やがてドローレス村の司祭となった。この間、住居はフランス文学が議論され、演劇や音楽、ダンスが披露される場所となり、「小さなフランス」と呼ばれた。書物から学んだ実学の知識で陶芸、皮革加工、養蚕などの事業を進めたのは、貧しい先住民や混血民が多い教区住民の経済状況を改善するためであった。一方、社交や議論を好む性格は周囲との軋轢を生み、伝統的な神学を改めようとする議論は保守的な人々の反発を招いた。異端として告発する者もあり、異端審問所は1800年に素行調査を行ったが、裁判には至らなかった。

1808年にナポレオン軍がスペイン本国に侵攻し、国王フェルナンド7世を退位させると、メキシコ市などでは自治を目指す運動が起こったが、本国出身の官僚らが武力で阻止した。イダルゴは知り合いのイグナシオ・アジェンデに誘われ、ケレタロ市の政治サークルに加わった。参加者はクリオーリョの軍人や官僚、商人で、本国出身者を排除する武装蜂起を密かに計画したが、計画は事前に漏れ、メンバーが次々に逮捕された。

この知らせが1810年9月16日深夜にドローレス村に届くと、イダルゴは演説(ドローレスの叫び)を行い、先住民や混血民を中心とする住民を率いて蜂起した。正確な内容は伝わらないが、ナポレオンの支配と植民地政府を非難し、幽閉されたフェルナンド7世の復位を求め、カトリックを擁護したようである。参加者が増えるにつれ、人頭税や奴隷制の廃止、土地改革といった要求が掲げられた。グアナフアトの攻略では裕福なスペイン人が殺され、地元のクリオーリョも含まれていたため、反乱は階級闘争の性格を帯び、反乱軍を支持しないクリオーリョも多かった。やがてアジェンデと意見が対立し、メキシコ市の攻略に失敗して劣勢になると、アメリカ合衆国への逃亡を図ったが、1811年にスペイン側に捕らえられ、チワワでアジェンデら3人とともに銃殺されて、晒し首にされた。独立後、ドローレスは彼を称えてドローレス・イダルゴと改称され。

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