伝記
サカガウィアは、1788年ごろに生まれ、1812年12月20日に没したとされるショーショーニー族の女性である。サカーガウェアなどとも表記される。10代でルイス・クラーク遠征隊に同行し、赤子を背負って旅をしたことで知られる。この探検で重要な役割を果たし、アメリカの硬貨の肖像にもなっている。信頼できる史料は非常に限られている。
夫トゥーサン・シャルボノーの話によれば、アイダホ州サーモンの近くの、レムハイ・ショーショーニー族の一派に生まれた。1800年ごろ、12歳くらいのときに、ヒダーツァ族の襲撃で数人の子供たちとともに捕虜となり、この襲撃でショーショーニー族の男4人と女4人が殺されたという。現在のノースダコタ州にあるヒダーツァの村に連れ去られ、その後フランス系カナダ人の毛皮商人シャルボノーに引き取られて、その妻の一人となった。13歳ごろのことで、本人の意志によるものではなかったと考えられている。なお、2021年の書籍には、もともとはヒダーツァ族の生まれで、ショーショーニー族に連れ去られた後に戻ったとする別説も紹介されている。
トマス・ジェファーソン大統領は、当時白人にとって未知の領域だった西部を探るため、30名余りの兵士で構成する遠征隊を派遣した。1804年5月14日、ルイスとクラークが率いる隊はセントルイスの近くの基地を出発し、三隻の船に分乗して、ミズーリ川をさかのぼった。10月下旬にマンダン族の領土に着いてマンダン砦を築き、越冬の準備をした。隊は、ミズーリ川の源流に住む部族と意思を通じるために、通訳が必要だと考え、ショーショーニー語を話すシャルボノーの妻を、夫とともに雇い入れた。彼女は当時16歳で、最初の子を身ごもっていた。クラークは彼女を「ジェーニー」と呼んだ。1805年2月11日、砦で男の子を産み、ジャン・バティストと名づけられた。
春になると、遠征隊は砦を出て、再びミズーリ川をさかのぼった。彼女は生後2ヶ月ほどの子を背負い、冷静に対処して隊員たちを励ました。5月14日には、転覆した船から落ちた荷、ルイスとクラークの日誌や記録まで拾い上げた。指揮官たちはその素早い行動を称え、5月20日に彼女の名を川に付けた。熱病で瀕死の状態にもなったが、ルイスは野営地の近くの温泉の湯を飲ませ、回復した。ロッキー山脈を越えるにはショーショーニー族から馬を得る必要があった。7月27日に彼女の部族が住む土地にたどり着き、8月17日、ついにショーショーニー族の一団と出会った。通訳のために呼ばれた彼女は、酋長コーメアワイトを実の兄と認めて駆け寄り、毛布を投げかけて泣いたと隊の日誌にある。酋長は荷馬と案内役を提供し、山越えを助けた。山を越える間に食料が乏しくなると、彼女は食べられる根を探して調理し、隊員たちの体力回復を助けた。隊はやがてオレゴンに至り、太平洋に到達した。
息子のジャン・バティストは1886年まで生きた。サカガウィアが1812年に没したとされる一方で、その後も生き延びたとの説もあり、のちのいきさつはよく分かっていない。20世紀初頭には、全米女性参政権協会が彼女を女性の価値と自立の象徴とし、像や銘板を建てた。1999年にはアメリカの1ドル硬貨の肖像に選ばれ、2000年に金色の硬貨が作られた。
同じ年に亡くなった人物
- ヒエロニュムス・フォン・コロレド (1812年没)
- Augustus Christian Frederick, Duke of Anhalt-Kothen (1812年)
- アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール (1812年没)
- ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク (1812年没)
- シュネウル・ザルマン (1812年)
同じ地域に関係する人物
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- Mary Sherman Morgan (2004年没)
- シッティング・ブル (1890年没)