HISTORICAL PERSON · 1812年没

スペンサー・パーシヴァル

イギリスの首相。財務大臣を経て1809年に組閣し、内閣の基盤を固めたが暗殺された。イギリス史上唯一の暗殺された首相。

生涯
1812年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ウェストミンスター宮殿)
出生地
イギリス連邦(メイフェア)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

スペンサー・パーシヴァルは、1762年11月にロンドンで生まれ、1812年5月11日に没したイギリスの政治家である。1796年から庶民院議員を務め、法務次官、法務長官、財務大臣を経て、1809年から没年まで首相を務めた。イギリス史上唯一の暗殺された首相である。福音派を支持し、これが宗教政策への態度に影響を与えた。

アイルランド貴族の父と、その2人目の妻キャサリン・パーシヴァルの次男として、ロンドンのオードリー・スクエアにある父の邸宅で生まれた。パーシヴァル家は弁護士や政治家、軍人を多く輩出した一族で、父は王太子フレデリック・ルイスの側近であったが、スペンサーが10歳のときに亡くなった。貴族の次男以降で、社会階級に比べて貧しく、早く亡くなった父の評価もそれほど高くなかったため、首相のような高位の官職を得る人物とは考えられていなかった。1774年から1779年までハロウスクールで教育を受け、学内の賞をとり、教科書を正確に理解すると教師から評価された。1780年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入り、1782年にM.A.の学位を得た。同時代の政治家では珍しく福音派を支持したが、その理由は学生時代の友人にあるとされる。1800年には、フランス革命はカトリックへの罰として神から与えられたもので、世界は1926年に終わるとの考えを披露した。

収入が少なかったため、1782年12月にリンカーン法曹院に入り、1786年に弁護士資格を取った。巡回裁判所で活動し、文書偽造の事件での弁論で名声を得て、ミッドランドの一流の弁護士とされた。ある友人によれば、この頃の彼は学識が少なく、多くの問題に強い偏見を持っていたが、気性のよさと人を引き付ける振る舞い、活発な会話で知り合いを喜ばせたという。1791年と1792年に匿名でパンフレットを出版し、小ピットの注目を浴びて、トマス・ペイン裁判などで政府側の検事団の一人に選ばれた。1795年末に小ピットから官職への就任を打診されたが、すでに5人の子があり家計は重いにもかかわらず、弁護士業で稼ぐことを優先して、1796年1月に辞退した。同年2月に勅選弁護士に選ばれた。弁護士としての収入は年々増え、最終的には毎年4、5千ポンドになった。

1796年にノーサンプトンの選挙区から庶民院議員となり、以後は無投票でも再選を重ねた。1797年5月に初演説を行い、小ピットの提案に賛成した。フランス革命戦争の遂行を強く支持し、演説は気取った態度ながら簡潔で、与野党の重鎮から称えられた。1798年1月の所得税法案の審議では、国家が危機にあるときの改革要求を批判し、この演説が名声を打ち立てたとされる。1801年にアディントン内閣のもとで法務次官となり、1802年4月に法務長官に昇進して、コベットらの名誉毀損事件を起訴した。小ピットが首相に返り咲いても留任し、児童労働の規制と奴隷貿易廃止運動を支持し、議会改革に反対した。1806年に小ピットが死ぬと野党に回り、1807年に第2次ポートランド内閣の財務大臣に就任して弁護士業を諦めた。1809年にポートランド公爵が辞任すると、組閣の大命が下った。首相として、摂政法問題や貿易不況を乗り越え、内閣の基盤を固めたが、その矢先に暗殺された。

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