HISTORICAL PERSON · 1813年没

ミハイル・クトゥーゾフ

帝政ロシアの軍人で、エカチェリーナ2世からアレクサンドル1世まで3代に仕えた。1812年のナポレオンのロシア遠征で総司令官となり、モスクワを明け渡して、退却するフランス軍を追撃した。

生涯
1813年没
死亡地
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県 / ボレスワヴィエツ)
出生地
ロシア帝国(Pskov Province)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県)

伝記

ミハイル・イラリオーノヴィチ・ゴレニーシチェフ=クトゥーゾフは、1745年9月16日(ユリウス暦9月5日)に生まれ、1813年4月28日(ユリウス暦4月16日)に没した帝政ロシアの軍人である。エカチェリーナ2世、パーヴェル1世、アレクサンドル1世の3代に仕え、外交官としても活躍した。ナポレオンのロシア侵攻のときの総司令官として知られ、元帥であった。

サンクトペテルブルクの軍人の家に生まれた。父イラリオンは工兵隊に30年間勤め、ピョートル大帝にも仕え、母アンナ・ベクレミシェワもロシア貴族の出身で、幼い頃からロマノフ家と交流があった。1757年に貴族砲兵学校に入学し、14歳で軍隊に入った。フランス語、ドイツ語、英語を流暢に話し、のちにポーランド語、スウェーデン語、トルコ語も学び、語学力は経歴を通じて役立った。1760年に母校の数学の教官を務め、1762年にはスヴォーロフが連隊長を務めるアストラハン歩兵連隊に入った。スヴォーロフから、命令は簡潔であるべきこと、指揮官は兵の健康と訓練に気を配り、自ら先頭に立って勇気を示すべきことを学んだ。ポーランド戦争やトルコ戦争に従軍して名を挙げ、1774年には、第一次露土戦争でクリミア半島のアルシュタを攻める際、倒れた連隊旗をつかんで先頭に立ち、頭部を撃たれる重傷を負った。致命傷と思われたが、ゆっくり回復し、右目に障害が残った。治療のためにヨーロッパを旅し、ベルリンではフリードリヒ大王と戦術や兵器、軍服について語り合った。

第二次露土戦争では、スヴォーロフの麾下でイズマイル要塞の攻撃に加わった。5度にわたる稜堡への果敢な攻撃で、1790年12月に要塞を陥落させ、スヴォーロフから賞された。1802年に予備役となったが、1805年の第三次対仏大同盟で現役に復帰した。ロシア・オーストリア連合軍の総司令官としてナポレオンと戦ったが、アウステルリッツで敗れた。皇帝アレクサンドル1世とは折り合いが悪く、この戦いでは名ばかりの司令官に格下げされ、作戦上の進言も軽視されたとされる。地方の知事職に左遷されたが、1806年に始まる対トルコ戦ではモルダビア軍の総司令官として軍功を挙げ、ブカレスト条約の締結に貢献した。

1812年、ナポレオンがロシアに侵攻すると、バルクライ・ド・トーリの焦土作戦と退却に批判が高まった。8月20日、世論に推されて67歳で後任の総司令官となった。かつての英雄の就任は全軍の志気を高めたといわれる。モスクワ西方のボロジノで露仏両軍が激突し、ナポレオン軍2万5千人、ロシア軍7万人の損失を出した。ロシア軍は退却を余儀なくされたが、フランス軍も決定的な勝利は得られなかった。クトゥーゾフはその後、退却を強行し、モスクワを明け渡した。「モスクワを失ってもロシアを失うわけではないが、軍隊が全滅すればモスクワとロシアが滅びる」と述べて周囲を説得したという。フランス軍は無血でモスクワに入城したが、街は火に包まれ、3分の2が廃墟となった。クトゥーゾフは南方から包囲して糧道を断ち、35日間の滞在でフランス軍は冬の到来と食糧難に苦しんだ。ナポレオンが退却を始めると、クトゥーゾフは執拗な追撃戦を行い、農民パルチザンも加わって、ナポレオンがロシア領を出たときの敗残兵は3万ほどだった。この功績で「スモレンスク公」の称号を授けられた。翌年もフランスへ侵攻する軍を指揮したが、ブンツラウで病没した。67歳であった。遺体はカザン聖堂に安置された。ナポレオンを完全に失脚させることには終始懐疑的で、アレクサンドル1世とは考えが食い違っていた。

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