伝記
テカムセ(テカムシとも)は、1768年頃に生まれ、1813年10月5日に没したアメリカ先住民ショーニー族の戦士、指導者で、白人の入植に抵抗する運動の中心人物である。雄弁な軍事指導者として、オハイオ渓谷への白人の侵入に抵抗し、先住民諸部族の大同盟を唱えた。名はショーニー族の言葉で「流れ星」、あるいは「天空を横切る豹」「待ち伏せしている豹」を意味するとされる。
1768年頃、オハイオ州中部のマッド川沿いの町で生まれた。父プクシヌアは小さな戦争指導者で、ショーニー族の一つの氏族の出身、母はその二番目の妻だった。誕生の夜に大きな彗星が空を横切ったことから、「天を渡る豹」と名付けられたと伝えられる。ショーニー族は、もとオハイオ川流域に住んでいたが、17世紀後半のビーバー戦争の頃にイロコイ連邦に追われており、1759年頃に北の旧領へ戻ることを決めた。彼の子供時代から青年期は、アメリカ独立戦争や北西インディアン戦争の時期に重なり、彼と同族は絶えず戦いにさらされた。
彼が生きた時代には、白人の入植者が増え続け、ショーニー族の領土だった東部にも押し寄せ、合衆国は先住民の土地を買い始めた。白人は布や銃などの物品と引き換えに、土地を「買って」自分のものにしたつもりだった。しかし先住民の社会では、土地は誰のものでもなく、「大いなる神秘」のもとですべてが平等であり、和平を誓えば異なる部族の間でも共有できると考えられていた。白人は贈り物を持ってきて「ここに住まわせてくれ」と言ったから、「聖なるパイプ」を回し飲みして互いに助け合えばよいと考えていたところ、白人はやがて、土地からの退去を命じ始めたのである。その要求は「土地の恒久的占有」だった。先住民が異議を唱えると、入植者は武力で排除し、合衆国は入植地を拡張するため増援を送った。
テカムセは、弟のテンスクワタワとともに、西部の先住民諸部族の連合に力を尽くした。部族を超えて語りかける優れた弁舌者で、文字を持たない口承文化のなかで、彼の言葉は同胞を蜂起させたという。1806年にはショーニー族の土地への入植者の侵入に抗議する宣言を出し、1811年のティッペカヌーの戦いの前には同胞に呼びかけた。この戦いで、ウィリアム・ハリソン率いる合衆国軍に敗れ、テカムセたちは当時イギリス領だったカナダに逃れたとされる。合衆国は彼を戦闘司令官と見なして、一連の戦争を「テカムセの戦争」と名付けた。
1812年に米英戦争が始まると、彼らはイギリス軍と同盟して戦った。イギリス軍の司令官アイザック・ブロックは、テカムセの支援を得るため、ショーニー族に独立した故郷をめぐって多くの約束をし、テカムセも彼を信頼して、初めて会った後に「これが男だ」と言ったと伝えられる。ブロックはテカムセを「インディアンのウェリントン公」と呼び、「テカムセより賢明で勇敢な戦士はいないと信じる」と述べた。テカムセたちはイギリス軍とともにデトロイトを攻略するなどの戦果を上げたが、ブロックは1812年10月13日のクィーンストン・ハイツの戦いで戦死し、その葬送では、先住民が道の両側に並んだ。エリー湖の湖上戦などでイギリス軍が不利になり、テカムセたちに非協力的なヘンリー・プロクターが指揮を執ると、彼らはイギリスの後ろ盾を失っていった。1813年のテムズの戦いで、連合軍は合衆国軍に敗れ、テカムセはリチャード・ジョンソン(のちの副大統領)に殺された。白人が「テカムセの戦争」と呼ぶ戦いは、これで終わった。
同じ年に亡くなった人物
- ダニエル・ゴットロープ・テュルク (1813年没)
- ゲオルク1世 (ヴァルデック侯) (1813年没)
- アントン・グラフ (1813年没)
- アレクサンダー・ウィルソン (鳥類学者) (1813年没)
- 申潤福 (1813年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ボビー・カー (1963年没)
- アイザック・ブロック (1812年没)
- ヘザー・メンジース (2017年没)
- ルービン・カーター (2014年没)
- Louis Hudson (1975年没)