HISTORICAL PERSON · 1814年没

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ

ナポレオンの最初の妻で、フランス皇后。マルティニーク島の生まれで、貴族の娘だった。ナポレオン3世の祖母にあたる。

生涯
1814年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / リュエイユ=マルメゾン)
出生地
フランス共和国(トロワ=ジィル)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、フランス皇后で、ナポレオン・ボナパルトの最初の妻である。1763年6月23日に生まれ、1814年5月29日に没した。ホラント王妃オルタンスの母で、後のナポレオン3世の祖母にあたる。

フランス領西インド諸島のマルティニーク島の生まれで、祖父の代から母国を離れたクレオールの家柄であった。結婚前の名はマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリという。貴族の娘でエキゾチックな美貌の持ち主だったが、生家は名ばかりの貴族で困窮しており、本人も大変な浪費家であった。16歳の1779年にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚し、一男ウジェーヌ、一女オルタンスをもうけたが、当初から夫婦仲が悪く、1783年に離婚した。子爵は革命中の1794年7月23日にギロチンで処刑された。離婚後、実家に戻っていたジョゼフィーヌも、島で多発する暴動に不安を覚えてフランスに戻ったが、元夫や友人の助命嘆願が罪に問われて投獄された。ロベスピエールが処刑されたため、同年8月3日に釈放された。

生活のために総裁政府のバラスの愛人となり、親友のテレーズ・カバリュスらと並ぶ社交界の花形となって、「陽気な未亡人」と呼ばれた。このころ年下のナポレオンの求婚を受け、1796年に結婚した。バラスが彼女に飽きて押しつけたともいう。実はナポレオンより6歳年上で、結婚時のナポレオンは26歳、彼女は32歳だったが、夫は2歳年上に、妻は4歳年下にさばをよんで、同い年の28歳として偽の結婚証明書を出した。彼女はナポレオンを無骨でつまらない男と見て、次々と愛人を作り、ナポレオンの母や兄弟姉妹とは折り合いが悪かった。イタリア遠征中にナポレオンが送った熱烈な恋文を、ろくに読みも返事も書かず、友人に見せて笑いを誘っていた。ナポレオンから何度も戦場へ来るよう促されても行かず、総裁政府の命令で渋々イタリアへ向かった。

エジプト遠征中、ジョゼフィーヌが美男の騎兵大尉イッポリト・シャルルと浮気していると知ったナポレオンは嘆く手紙を送ったが、手紙を載せた艦がイギリスに拿捕され、内容が新聞に載ってしまった。大恥をかいて離婚を決意し、妻が戻る前に荷物を家から叩き出した。しかし、ウジェーヌとオルタンスの涙ながらの嘆願と、彼女への愛から思い止まった。この直後のブリュメールのクーデタでも、広い人脈を生かして一役買っている。初めの離婚騒動のころから、彼女は徐々にナポレオンを真摯に愛するようになった。

1804年12月にナポレオンが「フランス人の皇帝」として即位すると、「フランス人の皇后」の称号を与えられた。しかし嫡子が生まれないことを理由に、1810年1月10日に離縁された。離婚式では、娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどのショックを受けたという。以後はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送り、多額の年金と、死ぬまで「皇后」の称号を保持することを許された。バラを愛して250種類を城の庭に植え、画家ルドゥーテに描かせて記録に残した。ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、肺炎により急死し、マルメゾンの教会に葬られた。最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島…」だったという。娘オルタンスはルイ・ボナパルトと結婚してオランダ王妃となり、のちのナポレオン3世を産み、息子ウジェーヌはナポレオンの養子となってイタリア副王にまで出世した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物