HISTORICAL PERSON · 680年代没

エブロイン

フランク王国ネウストリアの宮宰。独裁的な権力を握りブルグンディアやアウストラシアの支配を目論み、政敵レオデガルを処刑に追い込んだが、自身も後に政敵に暗殺された。

生涯
680年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エブロインは、フランク王国の分国ネウストリアの宮宰である。658年(659年とも)から673年と、675年から680年または681年に宮宰を務めた。生年は不明で、没年は680年か681年とされる。暴力的で専制的な経歴のなかで、ネウストリアの権威をブルグンディアやアウストラシアにまで及ぼそうとした。

ピピン家のグリモアルド1世による王位継承の試みがアウストラシアで失敗したのち、メロヴィング朝の宮廷はネウストリアに移った。クロタール3世の時代、宮宰エルキノアルドが没すると、王国の評議会がエブロインを後任に選んだ。クロタール3世の母バルティルドは摂政をつとめていたが、エブロインとの権力争いの末にシェルの修道院へ退き、それは664年のことだったとも、663年に王が成人したときにエブロインが追放したともいわれる。イングランドの学者ベーダは、668年の逸話を記している。それによれば、ローマからの帰途にあったイングランド人を、エブロインが待ち伏せした。東ローマ皇帝コンスタンス2世の使者として、フランクに対抗する同盟を結ぼうとしていると疑ったのだという。この話は、668年までにエブロインがネウストリアにとどまらず「全フランク人」に実質的な支配を及ぼしていたこと、また偏執的な傾向があったことを示すとされる。

673年にクロタール3世が死ぬと、エブロインはその弟テウデリク3世を、ほかの貴族に諮らずに王に立てた。エブロインはネウストリアとブルグンディアの結びつきを保とうとしたが、ブルグンディアの大貴族は独立を望み、オータン司教レオデガルやアルザス公アダルリヒのもとに結集した。彼らはテウデリクの兄でアウストラシアを治めるキルデリク2世に王冠を差し出した。キルデリクはエブロインを退け、自分のアウストラシア宮宰ウルフォアルドを据えた。エブロインは司教たちの取りなしで命を助けられ、剃髪されてリュクスイユの修道院に幽閉された。そこで、各王国が独自の法と慣習を保つこと、王国間で役人を行き来させないこと、エブロインのような専制を二度と立てないことが宣言された。だがまもなくレオデガルもウルフォアルドらアウストラシア軍に敗れ、同じ修道院に幽閉された。

キルデリク2世が不満を抱くフランク人に暗殺されると、テウデリク3世がネウストリアで復位し、レウデシウスが宮宰となった。エブロインとレオデガルはこの混乱に乗じて修道院を出て、ふたたび向き合った。エブロインはアウストラシアで即位したクロヴィス3世を支持し、レウデシウスを殺害し、宮宰に返り咲いた。関心はレオデガルへの復讐に向けられた。675年ごろ、ネウストリアとブルグンディアのほとんどで権威を回復すると、シャンパーニュの公をけしかけてオータンを攻めさせた。町は降伏し、捕らえられたレオデガルは目をくりぬかれた。エブロインは王にキルデリク2世暗殺がレオデガルの教唆だと信じ込ませ、レオデガルは裁判で追放を言い渡された。その途中、エブロインの命によって処刑された。日付は678年10月12日とも、679年10月12日ともされる。

エブロインはネウストリアのもとでのフランク統一をめざし、ラン付近のボワ・デュ・フェイの戦いでアウストラシア軍に勝った。しかしその勝利は長くは続かず、680年か681年に多くの政敵の攻撃によって暗殺された。684年にポワティエ司教アンソアルドがレオデガルの伝記をまとめさせ、そこでエブロインは野望と権力欲に満ちた神の敵として描かれた。この伝記は教会で定着し、レオデガルも聖人とされた。アウストラシアにも悪評の記録は多い。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。